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新しい旅へ 最終章

早月川の河口から剣岳へ④~剣岳の麓の集落・伊折の2

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早月川の河口から剣岳へ④~剣岳の麓の集落・伊折の1

  山行データ2011年7月17日~22日。単独59歳。剣岳ののちは薬師岳、黒部五郎岳、西鎌尾根から槍ヶ岳、大キレット経由で北穂高岳から穂高連山、ジャンダルム、西穂高岳、焼岳から上高地へ下山 ...

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山行データ

2011年7月17日~22日。単独59歳。剣岳ののちは薬師岳、黒部五郎岳、西鎌尾根から槍ヶ岳、大キレット経由で北穂高岳から穂高連山、ジャンダルム、西穂高岳、焼岳から上高地へ下山後は徳本峠から新島々へ終着した(8月6日)。すべて山小屋利用。

 

伊折と芦峅寺

早月川の源である剣岳にもっとも近い集落・伊折立山登山とのつながりの深度を、さらに知ることはできないか。

 

富山側からアルペンルートを利用して視界の広い室堂(2,500m)に着いて北側を見やると、盛り上がる大きな尾根がうねり、その頂点を大日岳・奥大日岳が占める。

 

その尾根を挟んで、北に伊折、南に芦峅寺がある。

 

芦峅寺、隣接する岩峅寺はかつて立山登拝の宿坊が並んで繫栄し、仲語(ガイド)が山頂へと案内した。

 

伊勢神宮参拝に全国各地から伊勢へ参う人々を受け入れた宿坊が繁盛したのとよく似ている。

高山と平地の違いだけであろう。

 

現代でも雄山山頂(3,003m)には小さな雄山神社が健在で、直下の社務所建物の中ではお祓いをしてもらえる。

 


(雄山山頂の神社)

 

私も数年前儀式の列に並んで、簡易な祝詞ののち鈴付の赤いお札を授かった。

 

室堂から若い人なら2時間弱で雄山に着ける手軽さである。

 

 

早月川側から雄山に行くには、早月尾根から剣岳を経て岩尾根を下ってから別山を越えなくてはならない。

二日がかりだ。

 

剱岳から下る岩尾根は、肝を冷やし身のすくむ危険だらけである。

 

猟師と山岳ガイド

立山信仰とともに栄えた芦峅寺だが、ウエストンらの影響で登ることを楽しむ大衆登山の扉が開かれると、仲語たちは登山者を案内する山岳ガイドへと変質していった。

 

3千メートル級の深山に分け入ってクマやシカなどを追い、清冽な渓流に群れ集うイワナを求める日常で培った経験と知識が豊富な山人である。

 

学生、社会人、あるいは測量隊などが頼りにしたのは、必然だ。

 

先に山の本棚で紹介した「ある北アルプス哀史―喜作新道」でも、そのことがよく読み取れる。

 

平蔵、源次郎、長次郎など、現在も剣岳の谷や尾根に見える人名は、その一例だ。

 

柴崎芳太郎が率いる明治40年の剣岳測量登山(陸軍省陸地測量部)のガイドをした宇治長次郎芦峅寺に近い大山町の山人だ。

 


(雪をまとった剱岳=平成24年上市町観光協会の剱岳山開きパンフレットから)

 

長次郎剣岳登頂への貢献は、新田次郎が小説「剱岳・点の記」で彫り込んだ。

 

剣岳を取り巻く当時の軍部、登山界、地元人の功名心、思い入れなどが、事実に想像を練りこんで盛り込まれていている。

 

こうした常願寺川沿いにある立山ガイドの系譜が脚光を浴びるのに対して、早月川沿いの伊折の存在感はどうだったか。

 

伊折と芦峅寺

「剱岳・点の記」をめくると、伊折とその近くの集落・蓬沢がでてくる。

 

柴崎たちより先に、ある人物が山頂を極めたというわさが流れ、その人物(仁助)に直接真意を確かめる場面。

立山入りしていた5人組パーティが、うわさの出どころではないかと仁助に聞く。

 

「見かけない顔でした。おそらく早月川上流の伊折か蓬沢の猟師ではないかと思いました」

 

芦峅寺の案内人ではないわけについて、柴崎はこう想像する。

 

(おそらく芦峅寺の人たちに剱岳登山の案内を拒否されたのだろう、それで伊折か蓬沢の者を案内人に頼んだのではなかろうか)

 

剣岳立山曼荼羅が説く地獄の針の山、禁断の峰という視点だ。

 

柴崎らの測量登山を支えた山岳ガイドが、歴史上芦峅寺の者ではない事実が、この視点を支えている。

柴崎の推測に<本当らしさ>を嗅ぐことができる。

 

伊折の塩屋の爺

芦峅寺のガイド佐伯平蔵の聞き書き 「立山の平蔵三代」(寺林峻)を開く。

 


(昭和11年に初代平蔵は「富山中学校剱岳登山」をガイドした。馬場島から早月尾根を歩いた=注参照)

 

平蔵が昭和10年頃の冬の剣岳に入山する早稲田大学の学生のガイドをしたころの回想がある。

 

それによると、上市から雪道をたどり初日は伊折で宿泊。

伊折には定宿があり、その主人(塩屋の爺)の言葉として平蔵は語っている。

 

「早月尾根の風さえ見ておりゃ、この山の天気を間違うことは、まずないんじゃ」

 

塩屋の爺によると、室堂・地獄谷方面からの風が早月尾根を越えると天気が崩れる、逆だとよい天気になる。

 


(地獄谷。室堂方面から)

 

地獄谷は今現在でもしきりに有毒ガスを噴出している。

風向き次第では近くの周遊の道にも漂ってきて、鼻をつく匂いは硫黄系の刺激がある。

 

有毒ガスを浴びる周辺の植物は生気を奪われてしなだれているのを、私もこの目で見ている。

 

昭和9年に慶応大学のパーティをガイドして早月尾根に入ったときには、平蔵は学生にすすめられて立派なスキーを履いていた。

それを目にした塩屋の爺

 

「ガイドの分際で・・・」

と、まじまじ私の顔(注・平蔵のこと)を見つめたものでした。

 

平蔵のガイドぶりと、塩屋の爺の存在感と天候判断、スキーへの価値観から次の3点が浮き彫り、もしくは強く推測できる。

 

▼伊折は剣岳登山に際して宿泊できる集落だった。
▼剣岳(早月尾根)を仰ぐ自然観察によって天候予測に優れていた。
▼伊折では登山ガイドを生業にしていない。

 

(注)富山県立山博物館特別企画展 ちょっと昔の学校登山掲載から。

 

 

(この項続く)

 

 

 

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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは10年目(2025年4月現在)

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