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新しい旅へ 最終章

早月川の河口から剣岳へ④~剣岳の麓の集落・伊折の3

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早月川の河口から剣岳へ④~剣岳の麓の集落・伊折の2

  山行データ2011年7月17日~22日。単独59歳。剣岳ののちは薬師岳、黒部五郎岳、西鎌尾根から槍ヶ岳、大キレット経由で北穂高岳から穂高連山、ジャンダルム、西穂高岳、焼岳から上高地へ下山 ...

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山行データ

2011年7月17日~22日。単独59歳。剣岳ののちは薬師岳、黒部五郎岳、西鎌尾根から槍ヶ岳、大キレット経由で北穂高岳から穂高連山、ジャンダルム、西穂高岳、焼岳から上高地へ下山後は徳本峠から新島々へ終着した(8月6日)。すべて山小屋利用。

 

剣の文蔵

日本アルプスの山頂などで登山者たちが交わす会話を聞くともなく聞いていると、百名山達成の仕上げが何山だとか、あと数座とかいう話題が、誇らしげに混じることは珍しくない。

 

深田久弥『日本百名山』に記載された全国の百座の完登への達成感と高揚感はさぞかしだと思うが、「剣岳」の項には剣岳初登を巡る柴崎らの測量登山のエピソードと宇治長次郎の名が語られ、長次郎と並ぶ名ガイドとして佐伯平蔵が記されている。

 

「わが国近代登山黎明期の越中の名ガイドと呼ばれた」

 

深田はこの二人に敬意を払う。


(長次郎=注1)

 

その黎明期から下って「剣の文蔵」と名をなしたのが、平蔵と同じ芦峅寺の佐伯文蔵。

新田次郎『剱岳 点の記』の取材では、廃業後に荒れた立山温泉にも導いた。

 


(立山温泉=注2)

 

文蔵は自著『剱岳の大将 文蔵』の中で、「立山ガイドの元老、佐伯平蔵と宇治長次郎」と一項を割いている。

山岳信仰のもとで多くの人々がその頂を目指した立山に、宿坊が並んだ芦峅寺のガイド名を何人もあげて振り返る文蔵が

 

「それに伊折にいくらかのガイドがいた」

 

とさらりと触れている。

 

田部重治と伊折

黒部渓谷を猟歩した冠松次郎をガイドした長次郎だけでなく、のちに独自の進化論を形成する今西錦司、西堀栄三郎らの京都大学パーティの薬師岳~黒部川下降をガイドして、「金作谷」の地名を残す宮本金作らの業績も、文蔵は語っている。

 

しかし伊折のガイドについて文蔵は、名をあげていない。

 

芦峅寺のある常願寺水系のガイドたちの、後世に名を残す華々しさに比べて、伊折と、伊折ガイドの影はもうろうとしている。

 

それを知る手掛かりは富山出身の英文学者田部重治(1884~1992)が残していた。

 


(田部・注3)

 

田部は日本アルプスなどを渡り歩き、高山や深い渓谷の危険や自然美などを気取らずにスケッチして、大衆登山の扉を開いた一人といえる。

田部は日々立山を仰ぐ風土で育ち、母の出身地が伊折に近く、伊折は親しい集落だった。

 

『新編 山と渓谷』『わが山旅五十年』の2冊に伊折が見える。

 

大正4年夏、田部は友人の小暮理太郎(1873~1994)らと槍ヶ岳から立山へ、そして早月川へ下って伊折を経由して滑川へと長躯した。

 

それによると--

剣岳登頂には長次郎のガイドを頼ったが、天気のよくないところを道も違わずに引率した長次郎の腕前に感嘆する。

 

長次郎のガイドで伊折へと下る

下山は室堂から芦峅寺のルートは平凡なので、早月川へ下ることを提案する。

 

田部は以前、この逆コースを歩いた経験があるから。

 

乗越とは、峠のこと。

 

昔のこと、立山地獄谷へ行って硫黄を取っていたころは、伊折から立山へ参詣するのが、道の近さ、景色のよいことからも芦峅寺からのそれよりも優れていて非常に盛んだった。

 


(立山川沿いに室堂乗越を経て室堂へ出る山道が記された昭和10年の地図=注4)

 

田部の母の生家は伊折から(4里=約15キロ)、そこには伊折から生活、灌漑用水がきていた。

 

田部の叔父のころは、一日目は室堂まで、二日目は立山に参詣して明るいうちに帰ることができた。

 

硫黄事業は乗越から早月川側へ下ったところで精錬し伊折まで運んだが、収支があわなくなって廃れ、あわせて山道も荒れだしてクマやシカが闊歩する荒れた谷になった。

 

「伊折の案内者でさえ立山行を拒むようになった」(「新編 山と渓谷」)

 

文蔵の回顧にある伊折ガイドの存在を裏付けする。

 

地獄谷の硫黄の搬出ルート

大正4年の立山川下山に戻ると、田部たちは雨に降られた悪天候の中を長次郎が先を行き、深い所は橋を渡し、足を滑らせれば命を落とすような険悪な下りを強いられながら馬場島に出る。

 

こんなにも危険な思いをしたことはないと、田部は思った。

 

かつて逆コースで馬場島を通ったときは小屋があって、薬草を取りに来た人たちがたくさんいたが、今は跡形もない。

 

馬場島からはしっかりとした道を伊折へと下った。

 

夕方の6時になって伊折の有志の酒井長作氏のところに入り、クマの皮を敷いた座敷にあげられた。

 

酒井氏は田部らが立山川を下ってきたことに驚き、近年は山がすっかり荒れ、猟師すらはいらないくらいだ、春先には田圃のほとりをクマがさ迷い歩くのが頻繁に目撃される、などと語るのだった。

 


(伊折橋から早月川の先に12月の剣岳を見る。伊折の集落は右手)

 

・・・酒井氏と田部の関係性は引用した2作からはわからないが、昭和10年ごろの伊折集落の住宅は約90軒を数え、そのうち酒井性は10軒ほど。

そこに長作氏を名乗る家はなく、大正4年から家長が変わっているのかもしれない。(注5)

 

*写真、図版は以下の刊行物から引用。

(注1)大山町歴史民俗資料館第5回特別展 大山の山岳ガイド展―宇治長次郎と仲間たちー(平成元年)
(注2)「新編 山と渓谷」岩波新書(平成5年初版)
(注3)雑誌別冊太陽「人はなぜ山に登るのか」平凡社(平成10年初版)
(注4)富山県立山博物館特別企画展「ちょっと昔の学校登山」解説書(平成17年)を部分拡大
(注5)冊子「伊折の歴史と文化」(平成10年・長澤信次)

 

(この項続く)

 

 

 

 

 

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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは10年目(2025年4月現在)

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