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早月川の河口から剣岳へ④~剣岳の麓の集落・伊折の3 地獄谷の硫黄採取
山行データ2011年7月17日~22日。単独59歳。剣岳ののちは薬師岳、黒部五郎岳、西鎌尾根から槍ヶ岳、大キレット経由で北穂高岳から穂高連山、ジャンダルム、西穂高岳、焼岳から上高地へ下山 ...
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山行データ
クマ騒動の古今
前回、伊折の酒井長作氏が。
立山川を下ってきた田部らに、近年は山がすっかり荒れ、猟師すらはいらないくらいだ、春先には田圃のほとりをクマがさ迷い歩くのが頻繁に目撃される、などと語ったことを記した。
そこから、昨年(2025年)の東北や各地のクマ騒動を連想した。
朝日新聞の報道によると、25年10月現在のクマの出没情報は、全国で3万6814件にのぼる。
23年度の3万4348件をすでに上回って過去最多。
被害者は11月までで230人を数えた。
北海道知床の世界自然遺産の羅臼岳では8月、男性登山者がヒグマの犠牲になった。
それより少し前、夏の北アルプス表銀座(喜作新道)・燕岳から始まるテント縦走初日の朝、わたしはクマ1頭を至近距離で出くわした。


(注1)
崩壊したアクセス林道の接続地で、登山口の中房温泉へ連結するマイクロバス待ちをしていたとき、ふと林道向かいを見やるとクマがいたのだ。
成獣ふうで5メートルほど向かいの垂直の岩肌に張られた落石防止ネットのあちら側を、首の白い三ヶ月も鮮やかにネットに爪をかませ悠然と登っていく。
10メートルほどを登りきると背後の樹林へと向きを変えて小尾根の向こうへ消えていった。
わたしたち10人ほどの登山者はざわめきながら、その動きを目で追った。
至近距離での遭遇は初体験だが、危険をまったく感じなかったのが不思議だ。
伊折から立山川ルート
クマとわたしたちはネットで隔てられていて、ちょうど動物園で仕切りを安全の担保にお互いを見ているような安心があったからだろう。
一対一の丸腰でいきなり対峙する山中なら、生きた心地がしなかったろう。
田部らが当時、荒れはてた立山川沿いに下山中にクマと遭遇しなかったのは何よりだ。


(クマは正面の崖の金網を登り去った)
さて、田部が立山登山に立山川~室堂乗越ルートを取ったことは先に記したが、今少し伊折の里人の貢献を知ることができる。
山歩きに目覚めた20歳代の田部は、夏の帰省を利用して薬師岳登山の前哨に伊折から立山に登ることにした。
立山登山の大方は伊折を通らないので、かえって面白いだろうと。
同伴は二人の弟と三人の甥。
大日岳のふもとにある母の家が出発地。
その家の前の往来からは海(富山湾)が見え、村からは立山がのぞめた。
母の家に勤める下男の藤作が6人分の荷物を一人で背負って4里先の伊折まで同伴した。
藤作は仕えること40年、忠勤の人として母の一族が感謝する人物。
田部はのちに、藤作に詩をもってその勤勉をたたえる。
先述した酒井氏は田部の叔父の紹介による。
酒井氏が氏の甥をあっせんし、田部たちは荷物を3里先の馬場島まで運んでもらう。
先述したように馬場島には伊折からの薬草採取の男女十数人がおり、宿泊のあてにしていた小屋に入れず田部らは河原で一夜を明かす。
室堂乗越から曼荼羅展望
翌朝のこと、伊折の案内人は小屋泊りのうちに室堂まで行く人がいるので、田部らにそちらについていってもらうことで話がついた。
これも重複するが、硫黄事業が盛んなころは立山川沿いの道は案外に楽だったらしいが、事業が中止になってからは荒れて、困難を承知で遡行した。
11時ごろ室堂乗越に着くと、いきなり大観が眼前にあらわれた。
別山、立山、浄土山が雪をまとい、あでやかな姿を顕している。
右手になだらかに下る大平原(弥陀ヶ原)に、数限りなく小さな虫のように動いているのは登山者の行列だ。
噴煙が幾筋も不気味に立ち昇っているのは地獄谷。


(注2)
「私はこの光景を見て恍惚となった。幾度か私は大自然に関してさまざまの光景を頭に描いた。しかし、空想が現実よりも劣っていることをこれほど痛切に感じたことはいまだかつてない」(『わが山旅五十年』)
田部らは、こうした荘厳な自然を目にしながら食事をする。
立山曼荼羅の絵解きが諭す浄土と地獄が広がっている。
伊折のガイドの警戒心
この峠で、伊折のガイドが不可解な言動に出る。
かれらは田部らより30分程先に室堂へ向かったが、田部らにかたく頼んだことがある。
室堂でだれに案内されてきたのかと聞かれたなら、本当のことはいわないでもらいたい、と。


(雄山近くから残雪の縞模様の室堂。室堂乗越は右手の尾根の鞍部)
というのはこの当時、室堂へのガイドは芦峅寺、岩峅寺の人にしか許されていなかったからだ。
田部はこの在り方に疑問を持つ。
だれが決めたことなのか。
「おそらく立山に関する一切の権利を握っていた神官たちが勝手にきめたのだろう」(同書)


室堂の神官の横暴なことは当時の富山県でも評判になっていた。
田部たちは、横暴の洗礼を受ける。
立山に登りたいのだがどうだろうと神官にうかがいを立てると断られた。
こんないい天気に登らない手はないと田部らは、無断で登りにかかる。
途中で上から降りてくる神官と出会う。
――今から山頂に向かっても神社は開かれていない。
――いや神社よりも展望が欲しいのです。
――・・・それならどうぞ。


(かつて登拝者は列を作って室堂へ。奥は立山・雄山、右は浄土山)
田部らの登頂をしぶしぶ認めたというのだが、神官による独占・独善・守旧・強欲・覇権・傲慢さが露骨だ。
そうした煩雑さはさておき、山頂で田部らはアルプスの偉観に接することができた。
*写真は以下から引用。
(注1)大町山岳博物館「山と人 北アルプスと人とのかかわり」解説書(平成26年)
(注2)富山県立山博物館特別企画展「ちょっと昔の学校登山」解説書(平成17年)
(この項続く)





