-
-
早月川の河口から剣岳へ④~剣岳の麓の集落・伊折の4 室堂の神官の横暴
山行データ2011年7月17日~22日。単独59歳。剣岳ののちは薬師岳、黒部五郎岳、西鎌尾根から槍ヶ岳、大キレット経由で北穂高岳から穂高連山、ジャンダルム、西穂高岳、焼岳から上高地へ下山 ...
続きを見る
山行データ
酒を酌み交わす平蔵と長次郎
浄土と地獄の山岳絵巻が広大に展開されてゆく立山登拝。
常願寺川をさかのぼり弥陀ヶ原・室堂から天上へと集う人々に、浄土と地獄を図解する立山曼荼羅を説きながら、山麓の芦峅寺などの中語(仲語)が先導した。
生と死をうちに抱える宗教的な色彩を離れて、山旅そのものを楽しむ大衆登山が広がるにつれて、中語はガイド(案内人)へと変質していく。


(注1)
常願寺川を挟む隣人である大山村の宇治長次郎らは中語の系列には数えられないが、共存共栄、あるいは棲み分けぶりがうかがえる。
明治後期から昭和初期のことだ。
例の一つは、芦峅寺の初代平蔵と長次郎のエピソード。
・・・常願寺川の吊橋を渡って長次郎が平蔵を訪ねる。平蔵より年は7つ上。
平蔵と長次郎は酒を挟んで長々と話し込む。
柴崎氏らの剣岳測量登山(明治40年)を導いたり、冠松次郎を黒部渓谷に案内したりと現在にも実績が紐解かれる長次郎だが、平蔵の息子(二代目平蔵)は実父の方がガイドとして優れているとみていた。
長次郎は、山のことでアレコレと平蔵の知恵を借りることが多かったようだ。
後難を避ける伊折のガイド
二つ目の例は、雄山神社の秋祭に長次郎がささやかな露店を開き、アメなどの駄菓子を並べた。
甘いもの嫌いの平蔵が長次郎の露店あたりで、ねじり菓子を口にくわえて、しきりにうまいから買うといいと知人らにすすめていたというのだ。
二人の関係(つまり芦峅寺と大山村のガイド)はきわめて良い。
<剣の文蔵>こと佐伯文蔵は「立山ガイドの大先輩としてみるならば、やはり平蔵と長次郎が双璧といえるだろう」と並べる。
文蔵が<立山ガイド>と括っているのに注目する。
長次郎のいる大山村のガイドたちを同列視しているからだ。
では、文蔵が「それに伊折にいくらかのガイドがいた」と語る伊折のガイドはどうか。
田部の立山川~室堂の山旅での室堂乗越の場面が、今また象徴的に蘇る。
伊折のガイドが、ここから室堂へ先行する。
室堂でだれに案内されたかと聞かれたら、しらばくれてもらいたいと念を押して。


(注2)
この当時、室堂へのガイドは芦峅寺、岩峅寺の人にしか許されていなかったと田部は記す。
田部はこの在り方への疑問を抱く。
「おそらく立山に関する一切の権利を握っていた神官たちが勝手にきめたのだろう」
伊折ガイドの腐心が読み取れる。
長次郎ら大山ガイドもまた、波風を立てず、無用の摩擦を避けようとしていたのではなかろうか。
黒部渓谷の長次郎
田部もその技量の確かさや人柄を頼りにした長次郎の山人ぶりについて、冠松次郎は『黒部渓谷』の随所で記している。
二か所だけ原文のままひく。
「退くことをいとう越中の人夫は、その中でもことに長次郎は悪場にかかると自ら、感覚はますます鋭敏となり、動作はいよいよ軽捷になる。そして休むことさえ忘れて、険阻に向かって突進する」


(注3)
「右手の巨岩の上にはいつか長次郎がはい登って踞坐し、月光を浴び歌をうたいながら深澤を眺めている。
山の好きな、山相を見ることの鋭敏なこの山人は、いつでものんきそうに歌をうたうくせがある。
それがまた実にこの山の自然に調和して私等にいい気持ちを与えてくれる。
いかなる峻嶮に対しても常に心の平衡を失わない彼を思うとき、私等は自然そのものに触れるようなのんびりした気持ちになれる」
記録されない伊折のガイド
長次郎や芦峅寺のガイドの変遷を知る書物は、『立山の平蔵三代』や、『剱岳の大将 文蔵』や、『あるガイドの手記』のほか、『わが山旅五十年』『黒部渓谷』などが筆者の手元にある。
以上はノンフィクションだが小説では『剱岳 点の記』がある。
これらに登場するガイドには、おのおの、宇治長次郎というように姓名がある。
しかし、伊折のガイドの個人名は、ついぞ見当たらない。
大正6年7月18日、冠は伊折を出発してその尾根(名がないので早月尾根と名づけおいた)をへて四日がかりで剣岳の頂にたった。
早月尾根ルートの剣岳初登になる。
冠の『剱岳』(昭和4年)によると、この山行ではガイドに平蔵を頼んだが、17日に上市についてみると平蔵の都合が悪いといって、代わりの者が芦峅寺からきていた。
平蔵の義兄の軍造。
それに福太郎、経春、兼次郎の、いずれも芦峅寺の者。
伊折のガイドの名はない。


(昭和3年6月24日の伊折)(注4)
その夜は伊折の酒井長作の家に宿をとった。
伊折に宿泊業があったとの記述には出会っていないが、頼めば応じたのであろう。
出発の朝の酒井の家先では、女性を含めて7、8人が奥の鉱山へむしろや食糧品の荷造りをしてから出て行った。
酒井は冠に、早月尾根への取り付きまでの道を具体的に授けている。
伊折の人ならではの知識と助言だが、山中に道筋を切り開き登頂を導くガイドではない。
つまるところ、請われれば芦峅寺の睨みを気遣いながら、ひっそりと室堂への案内を引き受けるほどが伊折ガイドの立ち位置だったろう。
*写真は以下から引用。
(注1)(注3)大山町歴史民俗資料館「大山の山岳ガイド 宇治長次郎と仲間たち」(平成元年)
(注2)富山県立山博物館特別企画展「ちょっと昔の学校登山」解説書(平成17年)
(注4)私家冊子「おかげさまに生かされて」(昭和63・酒井ハリ)よく似た構図と人物の写真が、『剱岳』(昭和4年・冠松次郎)に掲載されている。
(この項続く)





