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新しい旅へ 最終章

早月川の河口から剣岳へ④~剣岳の麓の集落・伊折の6 剣岳・伊折街道

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早月川の河口から剣岳へ④~剣岳の麓の集落・伊折の5 無名の伊折ガイド

山行データ2011年7月17日~22日。単独59歳。剣岳ののちは薬師岳、黒部五郎岳、西鎌尾根から槍ヶ岳、大キレット経由で北穂高岳から穂高連山、ジャンダルム、西穂高岳、焼岳から上高地へ下山後は徳本峠から ...

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山行データ

2011年7月17日~22日。単独59歳。剣岳ののちは薬師岳、黒部五郎岳、西鎌尾根から槍ヶ岳、大キレット経由で北穂高岳から穂高連山、ジャンダルム、西穂高岳、焼岳から上高地へ下山後は徳本峠から新島々へ終着した(8月6日)。すべて山小屋利用。

 

司馬遼太郎とトンコ

作家の司馬遼太郎は昭和40年代半ば、『街道をゆく』の取材で標高2500mの室堂までケーブルカーとバスとでゆけるアルペンルートを利用して立山を訪ねた。

 

同行した男性は一木一草にまで詳しく、聞けば芦峅寺の人で中語(司馬は御師と記す)の後裔で今はガイドだと答えた。

 

帰路司馬は思い当たるところがあって、あなたは佐伯富男(1929~1990)ではないかと確認する。

 

確かに富男、「トンコ」と愛称された。

 

トンコは芦峅寺の出身で、北海道大学の林学科で学び、卒業後は地元を拠点にガイドをしてきた。

第一次南極越冬隊にも参加している。

 

トンコの著書『あるガイドの手記』芦峅寺で育った日々のエピソードから自らの山での体験が豊富だが、昭和35年暮れに起きた剣岳・赤谷山での富山大学生の遭難救助の顛末に伊折が出てくる。

 


(伊折の無人の家屋)

 

馬場島から入山した6人が雪の山中で遭難し、年が明けてからトンコたち芦峅寺の男たちが現地に向かった。

 

富山大学生6人の雪山遭難と伊折

岩の鎧の剣岳

 

夏山ですら一歩踏み外せば命を失う超危険な山岳だが、冬山の難易度は格段にあがる。

 

日本海を渡って膨張した雪雲が剣岳などの高山にぶつかり、重く湿った雪をどっさりと降らせる。

それでも、いやそれだからこそ、想像を絶する困難と忍耐の先にある剣岳の登頂に突き動かされる群像がある。

 

ふつうは上市から早月川にそって伊折を経由し、馬場島から入山する。

 

(早月尾根上部・早月小屋付近から)

 

遭難した富山大もその一群だった。

 

トンコたちが遭難現場に近づこうにも、雪庇と積雪がひどい。

ラッセルをするが、100メートル進むのに2時間もかかるほどだった。

 

日を改めて芦峅寺の男たち15人が集まった。

トンコの義父文蔵もいる。

 

トンコは全員の名を書き残す。

伊折の人の名はないが、酒井弥助(馬場島山荘管理人)が馬場島まで同行する。

 

伊折は5人の遺体搬送のとき、心温まる支援をした。

 

 

「途中、伊折部落の中学校では、婦人会による炊き出しが用意されていた。まさに部落総動員の協力だった」

 

 

次の集落(折戸)では、神社の前を遺体が通ると一週間あらしがおきて凶作――という不文律を破り遺体の出迎えをしてくれた。

 

残る1遺体は三月に発見した。

 

50キロの荷を背負う早稲田の馬車馬

昭和10年ごろにさかのぼれば、東京の大学山岳部の冬季剣岳登山のガイドをした佐伯平蔵には、伊折に常宿があった。

 

そこの「塩屋の爺」に空を見ながら天気を予測するコツを教えてもらったのは、すでに紹介した。

 

そのころ平蔵が冬と春の剣岳にガイドする大学の一つに早稲田があった。

 

いったん入山すると、30日、40日滞在する。

学生が背負うのは50キロほど。

もくもくと歩き、初日は伊折

 

その歩きっぷりから<早稲田の馬車馬>と呼ばれた。

 


(早月川からの導水路)

 

平蔵は昭和14年3月にも早稲田パーティと馬場島に入った。

 

戦前の最後の本格的な雪山。

このときも、「塩屋の爺」と会っていたか。

 

大陸では泥沼の戦線が続き、2年後の12月には太平洋戦争が始まる。

軍靴がカツカツときな臭く響く時代になっていた。

 

伊折に下れば獅子舞

田畑を耕し、炭焼きの煙が谷間の空を染め、学校があり、子どもたちの甲高い声が響き、出稼ぎがあり、帰郷があり、誕生と別れなどがこもごもと絡み合った伊折が春の4月の風を聞くと、獅子舞が人々をうきうきさせた。

 


(伊折の下流の廃校)

 

昭和44年の水害ののち離村者が相次いだが、昭和57年8月には離村者250人が、上流の野外活動施設・剣青少年センターに集い夏祭りを催し、獅子舞を楽しんだ。

 

それから約40年後の2011年、わたし(筆者)は、伊折出身のNさん(富山市・70歳超)からこんなお話を聞いた。

 

 

「剣岳は登下校で眺めた。ここが古里だと思って歩いた。登ったことはない。4年までは分校へ、5~6年は蓬沢まで4キロ歩いて本校へ通い、中学になると再び伊折に学校があった。

高校はマチで下宿し公務員になった。

 

剣は伊折橋からの眺めが一番だ。絵になる。

 

そこの隣に遅咲きの桜を1年に100本ずつ植えていて、今年で500本になった。

やがて桜が咲き、残雪の剣岳と並ぶ風景を夢見ている。

 

離村者がその風景からふるさとを思い出し、若い人には伊折の印象を持ってくれればいいなと。

東北大震災で「絆」というが、伊折はまさに絆だった。

 

醤油がないというと、隣家の冷蔵庫を開けて、「借りるよ」と。風呂ももらい湯をしていたしね。

 

離村してから獅子舞を復活させて、剣岳の山開きのとき馬場島で舞ったものだが、ことしは人が集まらないのでしなかった」

 

 

伊折のガイド史の探訪の締めくくりには、住民の心情が一つに縒り合させる祭りの獅子舞がふさわしい。

伊折がつつましく、ささやかに、しかしクッキリと刻まれている。

 

「劔の歌」(劔ダンチョネ節)は九番まである。(早稲田山岳部歌)

 

二番は先の富山大の遭難の山が歌われる。

 

「劔見るなら 赤谷(アカダン)尾根でよ 大窓小窓にね 三の窓 ヨカネ」

 

そして九番。

 

「ひげを伸ばして 伊折へ下りゃよ おいらを待ってるね 獅子舞が ヨカネ」

 

馬場島での剱岳山開き(6月)のおりに披露されることがある。

 

剣岳登山史にはかするだけの伊折だが、早月川河口から馬場島までの道のりを、ひそかに剣岳・伊折街道と呼ぶことにする。


(早月川の河口)

 

(伊折の項終わり)

 

(補記)『日本の名山 立山』(博品社)が、長次郎や平蔵らの活躍を紹介しながら立山方面のガイドについて言及している。早月川沿いでは、「白萩村(現在の上市町白萩)にも丸田丈次郎を中心に案内人グループはあったが、(中略)層が薄く、自然消滅した」とある。昭和10年頃の伊折の住居配置図に、丸田姓の家はない。

 

(注)写真はすべて2011年7月撮影

 

 

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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは10年目(2025年4月現在)

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