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北アルプス 登山記録 第6章[唐松岳-白馬岳]

【第6章】唐松岳から白馬岳、日本海へ⑦~つれづれに雪倉岳~

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白馬三山
【第6章】唐松岳から白馬岳、日本海へ⑥~おぉ、得撫島草じゃぁないか!~

  山行データ2002年8月8日-12日。49歳。単独。 3,000m峰はないが、日本海~3,000m峰全山~太平洋の旅程から外せない。 三日目は白馬三山の賑わいを抜けて、雪倉岳の避難小屋ま ...

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山行データ

2002年8月8日-12日。49歳。単独。
3,000m峰はないが、日本海~33,000m峰全山~太平洋の旅程から外せない。
雪倉岳は、その山名が気に入っていつか訪ねてみたいと願ってきた山です。

 

三国境をさらに北へ

今日の予定は、雪倉岳(2,610m)の山頂に取り付く鞍部に建つ小屋まで。

北アルプスでは珍しい、無人の避難小屋です。

 

「ゆきくらだけ」――喉に転がしてみると、実に響きがいい。

 

深々と峰を覆い尽くす白雪をふくよかに連想します。

三つの漢字の並びにも、凛とした誇りを感じます。

 

富山に本拠を置く環境団体「立山連峰の自然を守る会」による北ア富山県側のライチョウ生息調査が行われた山の一つに雪倉岳の名を見つけ、一度で惹かれました。

 

尾根は越中信濃の分水嶺なのです。

 

<どんな山なのだろう。いつか行ってみたい>

 

白馬岳の山頂から北へ歩くにつれてガスが冷たく首筋にまとわりついてきます。

 

冴えない天候のおかげで、またしてもライチョウが2羽、3羽と近くに目撃できます。

 

コマクサの薄ピンクの大群落が待ち受けています。

薄紫色のマツムシソウもよく目立ちます。

 

まれに見かける登山者も、三国境の標識までです。

 

ひっそりと立つ避難小屋

栂池・白馬大池方面から白馬岳へとつながる道筋がここで交わりますが、北の雪倉岳、さらには日本海へと北上する登山者はごくごく少ないようです。

 

山上の標識は下界でいえばお地蔵さんです。

道筋をはっきりと示してくれ、目的地の名を見ると、どういうわけか励まされます。

潅木すら稀なザラっとした山肌にまだらの残雪、冷たそうな水を貯めた山上の小池(長池=写真)を左下の窪地に見ます。

 

<あのあたりでテントを張ってみたい…>

 

などと心残りしながら砂利を一人踏み続けます。

 

静けさと連れ合いですが、珍しいことに、赤い登山者が遠くからこちらに向かっています。

 

緩い下りで、上下揃いの防寒具の男女二人とすれ違う。

足取りが若々しく力強く、雰囲気が軽快で明るい。

 

手短な挨拶のみですが、腕に何か腕章が見えます。

公的機関の環境パトロールでしょう。学生でしょうか。

 

これも、わたしが学生時代にアルバイト募集で憧れた仕事です。

困ったことに、今でもそそられる仕事です。

 

残雪で水を補給してまもなく、雲片を透かす眼下に雪倉岳の小屋が見えてきます。

 

繁華街からそっと外れた赤提灯の居酒屋を連想するのは、リュックを下ろした後のビールを思うからでしょう。


(この残雪で水を補給)

 

源平の物語と雪倉

雪倉岳からは、日本海に近い高山の大雪を思います。

厳冬の日本海を越えて空一面を低く埋め尽くす重く黒い雲が、飽くことなく雪を降り積もらせる冬景色です。

 

雪倉とは、思いがけないところでも出会いました。

 

「義仲の近習たちは、雪倉の番人のように、しゅんと、このところ、ひそまり返っていた」(吉川英治『新・平家物語』)

 

平家の都落ち。

入京した源氏・木曽義仲を巡る風雲急を告げる一場面です。

 

雪倉とは、雪を長く保存するための施設ととれます。

 

源平の時代には、雪倉の名を持つ施設があったのかもしれません。

夏の暑い盛りに、ごくごく限られた雲上人が、現代のカキ氷のように涼をとったのでしょうか。

 

わたしが一時住んだ加賀百万石の金沢市では「氷室」が伝わっていました。

冬の雪を貯蔵して夏に利用するというのです。

 

雪倉を連想させます。

ところが雪倉岳の「倉」は、雪の豊富さを強調するのとは違うようです。

「積雪期には雪の間のところどころに岩が顔をのぞかせる。その岩を地元猟師らが「倉」と呼んでいたことから、雪と倉の山という意味で「雪倉岳」と呼ばれるようになったという」(「ウィキペディア」)。


(避難小屋は左下。右手に山頂への登山路)

 

ウエストンが目にした銀鉱山

硬質な岩。

そのイメージは、雪倉岳山腹が長く銀鉱だったことに結ばれます。

 

蓮華温泉(白馬岳北東)から白馬岳登山をしたウエストンが『日本アルプスの登山と探検』に記します。

 

「厳しい登攀が二時間つづいて、蓮華銀山に着いた」

 

親切な銀山の現場監督はウエストンを坑道にも案内します。

蓮華鉱山のほかにも、もっと北寄りの谷間に二つの鉱山があると、その監督は語るのでした。

 

鉱山はその後、どうなったのか。

「現存する古文書の記録だけを数えても元和三年から明治の晩年までおおよそ三百年、その大半は芳しくない採鉱の歴史であった」(長沢武著『北アルプス白馬連峰』―その歴史と民俗)

 

ウエストンが心を躍らせて日本アルプスを歩き回ったころ、現実利益にならない山歩きは、日本では酔狂な行動として迎えられたと、ウエストンは同書で述べています。

 

ただし、講を組んででかけた富士山、立山登山などの信仰登山には長い歴史があります。

 

にわか知識ですが、今ひとつ雪倉岳の地形には特徴があります。

 

山の尾根が桃割れのようになっているのを、二重山稜といいます。

小屋から雪倉岳山頂までが、まさに溝を隔てて並行する二重の尾根になっています。

そのさまがよく見渡せます。大地の造形は変化に富んでいます。

 

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朝焼け
【第6章】唐松岳から白馬岳、日本海へ⑧~雑魚寝のち、山頂~

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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは9年目(2024年4月現在)

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