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【第3章】上高地・焼岳・乗鞍岳・御嶽山麓まで④~親離れ、子離れ~
山行データ 50歳。2003年8月6~11日。6日は上高地から焼岳経由、坂巻温泉付近の旧道でテント、7日は乗鞍岳登山道そばでテント、8・9日は台風の影響で山小屋、10日に乗 ...
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山行データ
乗鞍岳までは、大学4年で就職が決まったばかりの長男Kが同行する。
★標高3,026メートルは国内19番目。
大正池の古い日
乗鞍岳山頂に近い山小屋に宿泊は一人、外は荒れ狂う台風。
暇ついでに、今度の山旅の始まりとした上高地の絵葉書などを見てみます。
大正池は焼岳の噴火(1925)で噴出した溶岩が梓川をせき止めてできたことは有名ですが、古い絵葉書を見ると湖面に並ぶ立ち枯れた樹木が印象的です。
撮影年は不明ですが、誕生後の生々しさを感じさせます。
今ではこれほどの立木を見ることはありません。
溶岩流下と池の誕生ほど豪快で鮮烈な自然現象ではありませんが、上高地を語るのにイワナは外せません。
カタカナより岩魚と書くのが、山奥の渓谷に生きながらえてきたこの魚への礼儀というものでしょう。
岩魚の職漁師
右下の絵葉書を面白く思います。
やはり撮影の日時は不明ですが、戦前までさかのぼるかも知れません。
手前の女性は何尾もの岩魚をササにエラ通しし、男性は釣り竿を手に背を向ける。
明らかに写真のための構図でしょう。
構図はヤラセふうですが、実生活として岩魚釣りがあったのでしょう。
倒木があって、岸辺がある。
そういう場所の可能性は現在の上高地でいえば、河童橋を右岸にわたってしばらくすると、木道の散策路が湿地帯を抜ける当たり、そこには岩魚の魚影が走ります。
もう一つは、明神池。
やはり梓川を上高地から1時間弱歩いた右岸です。
明神岳の岩峰がストンと削れ落ちたところに、明神池と穂高神社奥宮があって、静謐と深淵をたたえます。
嘉門次小屋がすぐそばです。
上高地の大将と岩魚釣り
次の一枚は木村殖著『上高地の大蔣』(1969・実業之日本社)の中表紙の写真です。
木村さん(1974没)は、上高地で木村小屋を営んだ方で、同書は、「伝説的な山男嘉門次、仙人常さんにつぐ上高地の主として、昭和初めから50年近くもアルプス山中に生き続けた」と紹介します。
穂高連峰の懐から押し出される豪快な岳沢を背に、梓川に釣糸をさしています。
観光客がひしめく河童橋も、よく似た岳沢と穂高連峰景観を見せてくれます。
ー古き良き上高地
というと、肩の力が抜けすぎたテレビの旅番組の決まり文句みたいですが、羨ましい釣りのひと時です。
さらに、木村さんが生きた昭和を大正からさらにさかのぼって1892年(明治時代)に梓川沿いにキャンプする人がありました。
「一人が薪を集めにかかると、一人は水を汲みにゆき、魚釣りを始めた者たちは旨そうな岩魚を見る間に十匹くらい釣りあげた」
ウェストンの記録です。(『日本アルプス1の登山と探検』)
岩魚夢幻
たまらないですね。ため息をつくほどに羨ましい。
空想に、渓流をびっしりと埋める岩魚の大群が、澄んだ瀬を走る渓流をものともせずに疾走(疾泳というべきか)します。
岩魚というのは端然として悠遊、3,000mの山岳への漠とした憧れと強く結びついているのです。
氷河時代の生き残りの凄味があります。
「渓流の女王」と称される山女魚では役不足です。
深山の渓谷に夏の数日の宿を借り、丸々と肥えた岩魚を存分に釣り上げ、思う様に料理して痛飲・大食するに勝る美食と愉悦はありせん。
が、それはいまだ夢想を離れません。
北アルプス、南アルプスが私のよく通う山岳ですが、そのような渓流は、この国土から永久に消え去ったのかとすら思えます。
林道群は奥地へ奥地へと侵入し、ダム群が流れを寸刻みのように断ち切っています。
北ア・黒部源流地帯ですら魚影を見ない旅がありました。
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【第3章】上高地・焼岳・乗鞍岳・御嶽山麓の⑥~天女が舞う~
山行データ50歳。2003年8月6~11日。6日は上高地から焼岳経由、坂巻温泉付近の旧道でテント、7日は乗鞍岳登山道そばでテント、8・9日は台風の影響で山小屋、10日に乗鞍 ...
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