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【第4章】補遺・薬師岳遭難①
山行データ19歳。大学2年。 1972年7月28日ー8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山 ...
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山行データ
1972年7月28日ー8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山。4人パーティ。
★3,000m峰は立山(3,014m)と槍ヶ岳(3,180m)
遭難の深層を探る
薬師岳(2,926m)山頂付近での大学生遭難について、分け入ってみます。
たった20才の若さで人生を終えた若者の無念はどれほどでしょう。
両親や仲間の心痛、苦悩も想像にあまりあります。
時代差はありますが、1年部員、同年齢で同じルートを歩いたわたしは、
「なぜ遭難が起きたか」
「責任はどこにあるのか」
「遭難は防げなかったか」
そうした疑問を持ちます。
2019年の今から30年前(1989年)の出来事ですが、遭難は毎年起きています。
今に通じる警鐘が見いだせるのではないかと思います。
記録や年齢は当時のものです。
遭難の事実関係は当時の新聞報道に拠っています。
報道は富山県警の発表が根元です。
現場をたずねた私の見聞、資料、関係者のお話を上積みして記していきます。
(北薬師岳山頂。薬師岳の本峰は細く狭い稜線をさらに前方へ歩く)
槍ヶ岳へつながる薬師岳経由の縦走
山行計画は次のような内容です。
関西の某大学のパーティです。
- 男子8人
- 3年生がリーダー、サブリーダー、2年生が1人、残る5人が1年部員
- 亡くなったのは1年のA君(20歳)
9泊10日(予備日2日)。
8月28日出発(関西)、最終下山9月9日。
室堂から入山、剣沢~からダイヤモンドコース(注・19歳のわたしが縦走しているコースと重複)、~槍ヶ岳というコース取りです。
薬師岳ののち太郎小屋から黒部川に下り、雲ノ平を経由して槍ヶ岳を目指します。
長い縦走コースに大きな山岳自然が変化し、とても魅力的です。
ダイヤモンドコースという命名には、表銀座、裏銀座という北アルプスの人気コースに双肩する意気込みがくりとれます。
人気コース必ずしも容易なコースではありません。
そのどれもが、槍ヶ岳を欠きません。
その三角にとがった岩鋒は、3,000m級の山岳の中でも際だって特異で、日本で最も人気のある頂の一つです。
槍ヶ岳の人気と主軸として位置する存在感がきらめきます。
その槍ヶ岳まで延びる(山行目的)はこういいます。
「思わぬ事故」によってこの年の夏山合宿が行われなかったことを振り返り、「山を歩く」という原点に戻り、鈴鹿、比良での山行ののち、今回の北アルプス縦走を行うという。
「思わぬ事故」が何のことなのか不明です。
文字通り人身にかかわる事故なのか。
「1年生部員には初めての長期山行になる。「山を歩く」とは何かを体得し、冬山に備えた自分なりの経験、知識、技術をつかんでもらいたい。安全確保の徹底を確立するためのものとしていきたい。」
大雨に見舞われた遭難当日
次にA君が遭難した9月3日の天気です。
日本海の上空にある低気圧の活動が活発になり、九州、中部、関東の広範囲が雷を伴う激しい雨に見舞われました。
「西日本大雨、死者7人 関東も要警戒」(1989年9月4日『読売新聞』の見出し)
記事本文から引用します。
「同日(注・3日のこと)午後六時までの二十四時間の雨量は、福井、岐阜、長野県内などで200ミリを超えた。この影響で、各地で河川のはんらんや土砂崩れが発生」
「熊本県で三人、福岡、大分、福井県と大阪市で各一人の七人の死者、愛知県で行方不明一人が出たほか、二府十三県で建物や道路などに大きな被害が出た。」
(真冬の薬師岳と有峰湖。右手が五色ヶ原・立山、左手が太郎小屋・槍ヶ岳方面2019・12・23撮影)
薬師岳を朝に夕にのぞむ富山県での3日の天候はどうだったでしょう。
同日の『読売新聞』を読みます。
富山県内でも3日朝から激しい雨。
2日午前10時の降り始めから3日午後9時までの雨量は、富山市で152ミリ、八尾町で135ミリ、魚津市で125ミリ。
たいへんな雨量です。
富山地方気象台は3日午後3時50分、県内全域に大雨洪水警報と雷注意報を出している。
富山市内では排水溝から水があふれ、商店の床を浸す被害が出た。
富山市に近い八尾は「おわら風の盆」の踊りが全国に知られ、市街を踊りの列が練り歩く「町流し」の見学が観光客のお目当てです。
約1万人が来ていましたが、この悪天候で中止を余儀なくされました。
八尾市街を流れる井田川は増水し、河川敷の臨時駐車場が水没しました。
風雨の尾根にうづくまる
猛烈な大雨が富山、長野、岐阜県をも襲っているいるさなか、A君ら8人パーティは3,000m級の山岳地帯を行動しています。
スゴ乗越のテント場をたたんで、薬師岳を越えて薬師峠のキャンプ場を目指して出発するのです。
『北日本新聞』『富山新聞』『読売新聞』の報道から、行動と時間の経緯を書いてみます。
(スゴ乗越のテント場。ササ、針葉樹に囲まれる。隣には、スゴ乗越小屋がある)
- 午前6時:スゴ乗越出発
- 午前9時20分:薬師岳山頂に到着。パーティがばらばらになる
- 午前11時半:薬師岳山荘に順次到着(4人)。小屋から未着の4人の支援に向かう。3人は山荘に収容、無事。残るのはA君だけ
- 正午:「山荘から約百五十㍍上にいたAさんを発見、収容した」
「岩影で意識不明になってうづくまっているAさんを発見した」 - 午後6時:A君死亡
連絡で太郎平小屋に居合わせた看護婦らが薬師岳山荘に駆けつけ、約2時間半、点滴やマッサージをしたが助からなかった。
(続く=断りのない写真は2017年7月撮影)
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【第4章】補遺・薬師岳遭難③
山行データ19歳。大学2年。 1972年7月28日ー8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山 ...
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