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北アルプス 登山記録 第4章[初の北アル縦走]

【第4章】補遺・薬師岳遭難③

 

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北薬師岳付近
【第4章】補遺・薬師岳遭難②

    山行データ19歳。大学2年。 1972年7月28日ー8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山 ...

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山行データ

19歳。大学2年。
1972年7月28日ー8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山。4人パーティ。
★3,000m峰は立山(3,014m)と槍ヶ岳(3,180m)

 

無防備な遭難現場の尾根

薬師岳(2,926m)の山頂から薬師岳山荘(2,701m)までは1.2Km。

 

わたしが歩いた2018年夏の最新の経験ですと、山頂からしばらくごくゆるく下り、尾根が東へ派生する避難小屋あたりを境にジグザグの斜面が急下降します。

 

ざらつく砂地と砕石が混じり、ハイマツが所々に申し訳程度に散らばります。

 

ここの下りにかかると、南からの風雨が正面からぶつかってきます。

A君が動けなくなったのは急斜面もほぼ終わり、小屋までわすかに150mのところといいます。

 

「岩影でうずくまっていた」という現場とは、どういう場所なのでしょう。

 

わずかに150m先の小屋まで行き着けば、暴風雨から逃れることができたはずです。

 

しかし、それができなかったという現場です。

 

生への望みを絶つ、なんと遠い150mなのでしょう。

 

私が遭難現場を求めて太郎平小屋から薬師岳を往復したのは、9月3日の遭難から3週間後の9月下旬です。

 

近くて遠い150メートル

遭難地点か
(薬師岳山荘=中央の赤い屋根と向かいに小屋がある。その目前でA君は動けなくなった)

 

尾根が馬の背のようにたわむ位置に薬師岳山荘がたっています。

ここからは、山頂から下ってくる登山道を振り仰ぐかたちになります。

 

きつい登りです。

 

砂地、少しのハイマツだけの尾根を行く登山道そばに、ひびの走る三角の岩が目立ちます。高さは2~3mくらい。

 

周りに「岩影」を持てるほどの高さを持つ岩は、ほかにありません。

 

山荘からの距離から推測しても、この三角の岩あたりが、遭難現場と推測しました。

 

薬師岳の山頂から南下してきた8人にとって、遭難時は真正面からの暴風雨がぶつかってきたことになります。

 

8人が9月3日朝テントをたたんで出発したスゴ乗越小屋関係者は開口一番、

 

「無謀というか…」と、次のように話しました。

「3日は朝から暴風雨だった。その日は周りの木々が揺れていて、ふだんとは違って風が出ているのが分かった。午前5時半ごろ、学生が出発するばかりのかっこうでトイレを借りにきた。太郎小屋に無線で気象を聞くと、そっちもひどいという。『無理をしないで途中からでも引き返してくるのだよ』と学生に言った」

 

暴風雨にたたかれ薬師岳を越える

北薬師から
(北薬師岳から薬師岳=手前方向=への尾根は細く荒涼としている)

 

スゴ乗越小屋付近は北向き斜面の森林の中にあり、風雨をずいぶんとしのぐことができます。

けれど、小1時間も登ると裸地や岩石地帯に変わり身を潜めるものはありません。

 

北薬師岳に向けてさらに登るばかりです。

 

ただ北斜面なので、薬師岳の山体が障壁になって8人が浴びる風雨はいくらか弱いと考えられます。

 

縦走のハナですので、8人の体力にしても甚だしく消耗していたとはいえないと推定できます。

 

北薬師岳山頂あたりから8人はいよいよ遮るものがなく、暴風雨のまっただ中に入り込むことになります。

そしてついに、薬師岳山頂後にパーティはばらばらになります。

 

風雨の中での行動について、この遭難の内容を知る別の立場からの証言、この山域の地理などに通じる山人の見解です。

「薬師岳山頂までは、コースタイムを見てもいいあんばいで歩いている。そこから乱れてしまう。山頂からが風が出て厳しくなるのです。風雨の強い時こそ、まとまって行動すべきでした」

 

さらに別の1人の見解です。

「一種のパニック状態になり、自分の身を守ることだけで精一杯になってしまった。『地を這わないと飛ばされてしまう』『ふつうには立てていられない』と、メンバーが言ったそうだが、実感だと思う」

 

 

 「這わないと前に進めない」

下の地図は遭難当日のパーティの行動区間=ピンク色=岩、砂地、限られたハイマツがあるきりだ。上の2枚の写真参照
遭難・地図

 

「遭難地点付近は、もろに風をくらう場所だ。『避難小屋(筆者注・愛知大学遭難後の小屋)から急に風がひどくなった』と学生が言ったらしいが、ずっとそれが続いたと思う。昨年自分は、ひどい強風を稜線の影に隠れてしのぎながら太郎小屋に向かった。強風に雨が加わるととんでもないことになる」

 

この証言では稜線の何かに身を寄せたと言いますが、そのような地点は薬師岳山荘からさらに南下しなくてはなりません。

そうしてようやく、再び樹林帯に逃げ込むことができます。

 

稜線上にエスケープできる場所はない。吹きさらし。

山頂近くの避難小屋を使うことはなかった。

 

8人の学生は、そのようにして「とんでもないこと」の渦中に翻弄されたのです。

 

8人が下っていく目と鼻の先に薬師岳山荘があります。

パーティの隊列を維持するような行動、指示はなかったようです。

 

ばらばらになりつつ、4人が前後して山荘の冬季小屋に到達します。

 

山荘はすでに夏季の営業を終えていて、別棟の小屋が冬季登山のためにあります。

小屋に逃げ込んだ4人の中には、遭難したA君が後方からついてきているのを確認している部員もいるということです。

 

しかしA君が自力で冬季小屋に歩き着くことはありませんでした。

(続く=写真はいずれも1989年9月31日撮影)

 

続きの記事
薬師岳山荘への下山路
【第4章】補遺・薬師岳遭難④

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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは9年目(2024年4月現在)

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