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南アルプス 登山記録 第11章[南アル-富士山、田子の浦]

【第11章】南アルプスから富士山、田子の浦へ㊥-2~信長の富士山~

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【第11章】南アルプスから富士山、田子の浦へ㊥-1~上九一色村~

山行データ2006年7月22日―23日、53歳。単独。本栖湖までバス便。冨士浅間神社から廃れた旧道を経て山頂を踏み、太平洋の田子ノ浦の潮まで踏破する計画だが、今回はかつての登山口である冨士浅間神社まで ...

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山行データ

2006年7月22日―23日、53歳。単独。本栖湖までバス便。冨士浅間神社から廃れた旧道を経て山頂を踏み、太平洋の田子ノ浦の潮まで踏破する計画だが、今回はかつての登山口である冨士浅間神社まで。

 

現代の観光と信長

本栖湖の東岸の本栖地区から、富士山の裾の北の広大な青木ヶ原樹海を抜けて、東へ立派な舗装道路を歩くにつれて、観光施設が次々に出てくる。

 

今は夏の観光シーズンの走りのころ。

裳裾を引き高く聳える姿形に季節折々の美しさを見せるのが、富士山の醍醐味であることは、何も現代に限ったことではない。

 

戦国武将の織田信長の足跡が面白い。


(信長は本栖から南下し富士山を仰いだ)

 

本能寺の変(1582年6月21日)で落命する直前、天下人に上り詰めようとするときの信長富士山と対面している。

ちょうど本栖で、信長の春の旅路とわたしの行路が、十字に交錯している。

 

富士山の名声は信長の耳にも届いていた。

甲斐武田勝頼を滅ぼし、「凱旋の旅」と司馬が「覇王の家」で表現する道のりだ。

 

家康の腐心と饗応の山麓

信長は気分上々だ。

富士山は、じかに自らめでたいと、信長は思っていた。

関心も高い。

 

それに応じるのが、徳川家康

 

盟友関係にある家康は、信長の凱旋に全精力を投じて尽くしまくる。

 

「甲府から駿府まで黄金の道でも舗きそうないきおいであった」

 

と司馬は記す。

高原から駿府への旅程。

 

信長富士山の裾野の広大なことに打たれ、馬に乗って駆け回り夜明けとともに全身を現わす山容に感服し、かねて人が言いつのる名山の誉れに真に感銘を受けたようだという。

 

信長のこの旅は3月のことで里は春めいてくるが、高原ではまだまだ冷気があり、富士山は白く雪を羽織っていた。

雪を頂いた富士山、夏とは打って変わった威厳の気を放っていたことだろう。

 

信長の時代の富士山登山

信長のころ富士山登山(信仰)が、すでに盛んだったことをうかがわせる。

 

わたしが今向かうのは、冨士浅間神社のある富士吉田には信長のころ、御師82人いた。

御師というのは、現代でいうツアーガイド兼解説者というところか。

 

富士登山に訪れた旅人を宿に泊め、登路を引率しながら、富士の霊験を伝達するのである。

 

これを聞くと、わたしが暮らした富山県立山の麓の集落・芦峅寺の中語という人たちや、何度か訪れた三重県伊勢神宮近辺に宿を構えた御師という人たちに通じる。

 

現代のような乗り物もなく、おのれの歩みを頼みに出かける富士山

 

時代が下り江戸時代江戸には、富士詣でを組織する地域団体の富士講が808あったとか。

 

何日かをかけて富士の高嶺を往復する旅は、疲労も含めて気晴らしであり、エンターテインメント(娯楽)産業でもあったろう。

 

現代ふうにいえば、「非日常を楽しむ」と同じだ。

 

「かれの多忙をきわめたその生涯のなかでこの十一日間は唯一の遊覧旅行であった。」

 

司馬は総括的に記す。

 

信長の足跡に何を見る?

しかし、評論『信長』(秋山駿)は、この十一日間に別の視線を注ぐ。

 

信長が南下する道々の荘厳華麗な普請、そして一服まで細心の至れり尽くせりは家康が陣頭指揮をとったものだが、武田討伐では、遠征よりこの行進にこそ信長の狙いがあったと見る。

 

 「信長式平和の演出といったものを、両国(注・武田領/家康領)の人士、または観察者としての公家衆に、よく知らせるものであろう。」

 

信長の示威戦略というのだ。

 

こうした人間ドラマを睥睨してきた物言わぬ富士山だが、信長が仰ぎ現代のわたしたちが目にする見栄えは、地球の生い立ちからの時間軸からすると、ごく若い火山なのだという。

 

わたしが通過した青木ヶ原の樹海は、平安時代の864年の噴火による溶岩流を土台にツガやヒノキが生育してできた。

 

時代が近いところでは、1707年に噴火があり、その噴火口は静岡側から山頂の南東中腹付近に卵形にえぐれてはっきりと見える(宝永山の噴火)。

 

地球時間では若い山とはいえ、ヒトの生死の時空で対面すれば、おのずと感じるところがあるというものだ。

 

噴火すれば怒りの火の山、雪をいただけばため息がでるほどの美形、降った雪や雨は地中にしみこんで長い浄化の果てに里で透明に吹き出して産業や田畑や人の生活を豊かに支えてくれる。


(富士吉田への道のり)

 

現代のわたしの歩みは、観光産業が発達した裾野を巡るルート。

移動手段の主役はクルマ。

 

信長は南下し、わたしは東へ、東へ歩く。

 

富士山の自然や人文の歴史を多角的に啓蒙する施設や、ゴルフ場・遊園地、宿泊施設などのサービス産業に並んで、地元の農産物を販売する出店などを見やりながら、クルマ社会の片隅に一歩ずつを薄く刻む。

 

これは凱旋でも、示威でもないことだけは確かで。

気温は20度そこそこ。

 

初夏の富士山麓は、まだ涼感に満ちている。

 

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【第11章】南アルプスから富士山、田子の浦へ㊥-3~雨の富士山麓~

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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは9年目(2024年4月現在)

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