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北アルプス 南アルプス 登山記録 第7章[南アル越え]

【第7章】南アルプス越え~これまでのルート㊦~

 

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ガスの大キレットと北穂高
【第7章】南アルプス越え~これまでのルート㊤~

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山行データ

富山・新潟県境の日本海から長野県伊那谷の高遠まで、標高3千mを超える峰々を歩きつないで来ました。
太平洋の静岡県・田子の浦までのほぼ半分。
北アルプス、中央アルプスを越えたことになります。
後半は南アルプスを歩き抜け、富士山の頂から潮路を取りゴールです。
南アルプスに踏み入れる前に、これまでのルート振り返っておきます。
何しろ、あちこちに道草を食っているブログですので。

 

 

上高地から焼岳、乗鞍岳へ

このルート(2003年8月)は、当時大学生だった息子が一緒です。

息子は大学四年、就職先が決まっていました。


(暴風雨の乗鞍山頂。傘の骨が折れた)

 

南アルプス悪沢岳(3,141m)赤石岳(3,121m)のテント泊などに付き合ってきた息子ですが、社会人になれば家族登山は無理。

子別れ登山です。

 

上高地河童橋でサンドイッチの朝食をとり、人混みを背に焼岳(2,455m)へ。

登るほどに植物が低く乏しくなり、地肌が剥き出しの山頂直下では火山ガスの噴出を隣に歩くのでした。

 

上高地側は梓川がくねるってのどかですが、焼岳山頂のそばには古い大きな噴火口がバックリと穿たれています。

梓川をせき止めた溶岩が一夜にして大正池を出現させた地異をうかがわせます。

火山が多い日本列島ですが、焼岳は触れればやけどをするほどにアチアチの活火山なのです。

 

初日は上高地への旧道でテント泊。

好物の牛すじ鍋(キムチ味)とビールを堪能。

 

二日目は白骨温泉から旧道を経て乗鞍高原

食堂でソバとビールで腹ごしらえをし、スキー場の草原を漕いで旧登山道に入ります。


(信州のソバ畑。白い花が満開=飯田市付近)

 

乗鞍岳から阿多野郷を経て開田高原

三日目。天候がどんどん悪くなり乗鞍岳(3,026m)山頂は暴風雨。

息子とは乗鞍岳で別れ、わたしは山頂直下の山小屋で二泊。

 

ガラス窓の外の残雪の斜面をぼんやりと見やったり、この先の予定を地図に眺めたりして過ごしました。

無為ですが、東京での仕事から縁遠い希有な沈殿でした。

 

天候が好転した三日目の朝、強風の乗鞍岳山頂から南を見ると、すぐそこのこんもりとした小山を舞台にして、半透明な絹糸のような模様が絡んだり広がったりしています。

 

地図には高天原とあり、天女のダンスパーティーみたいです。

高天原

 

山頂から西の道を行くと正面に低く高山市街、高く白山(2,702m)、左手には御嶽山(3,067m)が広々と裾を広げた絶海の孤島のようです。

足下には小さなお地蔵さんが数体。飛騨から道程に無事を祈る先人が偲ばれます。

 

分岐点から真南に下る途中で一組の登山者と出会ったのには驚きました。

この日、山中で唯一の人の気配です。

 

阿多野郷ではわたしを察知し、どこかから犬がしきりに吠えかけるのでした。

こういう辺鄙な沢沿いにオートキャンプ場があって、大きなテントや家族連れが見えました。

 

炎天下。

 

アスファルトの車道にうんざりし、足裏がこわばって悲鳴をあげます。

何軒か宿泊施設がある開田高原に。ヤレヤレです。

 

開田高原から御嶽山、木曽福島駅

折からの夏の林間学校(?)で旅館はいっぱい。

広いバス待機場の隅にテント泊。

 

翌朝は雨模様。

御嶽山越えは断念。

 

機会を改め(2004年9月)、開田高原覚明堂バス停で下車し、山中一泊の翌日、山頂を越えました。

山頂付近は深く冷たい霧が、散在するハイマツなどを打ち付けていました。

 

死者の霊が集い鎮まるという御嶽山

 

山頂にいた数人のグループはしきたりにならい、故人に生者が事を尋ね聞く営みをしているようでした。

麓に下って夕暮れに群列する霊神碑を過ぎるときは、生と死が伴う空域を意識して緊張しました。

 

アスファルト車道を延々8時間、木曽福島駅に着いたのは午前零時ごろ。

駅員さんが待合室の長いベンチで休んでいいと声をかけてくれました。

 

寝袋に潜り込んで背を伸ばすと、背骨がミシミシと音を立てました。

木曽福島駅
(ガラガラの車内。向かいに行商の老人が席をとった)

 

この山旅では新宿駅から夜行列車を利用し、翌朝木曽福島に向かう車中で行商と見える高齢者とふれあったことや、下車する行商人と入れ替わりになる高校生男子二人が、行商人の荷下ろしをさりげなく手伝うのを目にし、心が洗われました。

 

その後の御嶽山噴火は多くの犠牲者を出しましたが、死後の安寧を願う人々の思いを受け入れてきた信仰の山にかわりはありません。

 

木曽福島から「聖職の碑」木曽駒ヶ岳、高遠へ

中央アルプスに3,000m峰はない。

避難小屋
(木曽側の避難小屋。一人きりで泊まる)

 

木曽福島から北の権兵衛峠を経て伊那谷に入れますが、最高峰の木曽駒ヶ岳(2,956m)を越えます。

6月中旬(2004年)。

 

アスファルト道路を登山装備で歩くのは、山道よりも何倍もしんどいという実感もあります。

駒ヶ岳を望む避難小屋で一泊。

だれとも出会いません。

 

翌日は山桜がつぼみ、残雪が厚い斜面を登って駒ヶ岳山頂を踏み、北への尾根道を取りました。

木曽駒山頂
(木曽駒ヶ岳山頂。大正年間の遭難の現場付近でもある)

 

山頂からの道のりは新田次郎の小説『聖職の碑』で描かれた遭難事件の舞台です。

大正2年の夏山遭難(11人犠牲)ですが、堂々たる遭難記念碑、遭難をきっかけに立てられた避難小屋(西駒山荘)が歴史の証人です。

夏には宿泊もできる山小屋となり、初夏の伊那谷が眼下に一望です。

 

遭難から100年以上がたちますが、いつか一夜を借りたい小屋です。

 

 

遭難碑付近
(遭難記念碑付近。この尾根で遭難は起きた。奥が木曽駒ヶ岳山頂)

 

少し尾根道を北に辿ってから、一気に急斜面を下り膝が痛くなる頃に登山口です。

引き続き歩くと、『聖職の碑』の遭難直後、救援に尽力した集落を抜けました。

ひっそりと狭い谷間です。

ソバゆかりの神社
(伊那市内への道筋に、ソバどころらしい神社があった)

 

伊那市内で一泊ののち天竜川を渡り、桜の名所高遠城のある高遠のバス停まで歩き、後を南アルプス越えへと引き継ぎます。

 

(この項・終わり)
*次回から南アルプス越え

 

続きの記事
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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは8年目(2023年4月現在)

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