北アルプス 登山

第4章 補遺・薬師岳遭難⑦

 

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薬師山頂から
第4章 補遺・薬師岳遭難⑥

    山行データ 19歳。大学2年。1972年7月28日―8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山 ...

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山行データ

19歳。大学2年。1972年7月28日―8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山。4人パーティ。

★3千m峰は立山(3,014m)と槍ヶ岳(3,180m)

 

 

短パンとTシャツのA君

「寒さ」と「疲労」という点から遭難時の衣類、着方を見てみます。

真夏ですら3,000m級の尾根を歩いていて雨に降り込められると、ぞっとするほど体温が落ちます。

わたし自身が何回か経験しています。

素手か手袋がけか、それだけでずいぶんと体温の喪失は抑えられます。

暴風雨の薬師岳(2,926m)を越える縦走は、とてつもなく体力を奪います。

その結果としての低体温症、そして死。

引き続き1年生部員のB君に聞きます。

――あなたはどういう服装でしたか。
「僕はジャージにTシャツ。これはみんなが考えていた。寒くて、もうずっと寒かったんですよ。(遭難の日に僕は)Tシャツの上にトレーナーを重ね着し、その上にヤッケを来ました。それでも濡れるんですよね」

――A君も同じですか。
「彼はTシャツに短パンのみです。ゴアテック(雨具)はみんな、一緒に着ていました」

――Tシャツの上にウールとかを着ませんでしたか。
「ないです」

――その服装はA君だけでしたか。「はい。(長ズボンの)ジャージにTシャツというメンバーもいましたが、彼だけは短パンにTシャツ…ずっとその服装でした」

――それは、関西を出る時からですか。
「はい」

――スゴ乗越を出発するとき、リーダーが装備について点検するということはなかったですか。
「さぁ…」

薬師岳遭難
(北ノ俣岳方面から北に薬師岳を見る。尾根や頂上部が白っぽいのは、土や岩だけであることを示す。3千mの山岳の苛酷な自然だ=1989年9月)

 

寒さ対策は夏山でも必須

服装指導についてリーダーのC君の見解をきいてみます。

「1年生は夏の北アルプスは初めてです。縦走中の服装についても、(遭難に関係するのか)検討しています」

低体温症について『山と渓谷』から引用した医師の寄稿を読み返します。

「防寒が不十分だと短時間で低体温症になる、野外でいったん低下した体温を戻すのは極めて難しい」

まさにA君に当てはまります。

Bくんが証言するように、たとえ長袖、長ズボンの雨具を着ていても、雨はじりじりと侵入してきます。袖から、裾から、顔のぐるりから。

体温はどんどん吸い取られます。

 

リーダーシップが問われる

20歳の若者の遭難死はなぜ起きたか。

なぜ防げなかったか。

これまでの検討から次の一点に集約せざるを得ません。

▼リーダーシップの欠陥・欠落が遭難を誘引した。
それは、次の二つに分けられます。

  ①暴風雨が明らかな天候の朝、スゴ乗越を出発したこと。
  ②3千m峰の縦走に短パン、Tシャツで行動させたこと。

とりわけ、スゴ乗越の出発が決定的なのは、山小屋関係者の証言で明らかです。

次に夏山とはいえ、3,000m連山の縦走に短パン・Tシャツは危険すぎます。

ときおりそうした登山者を見かけるたび、<けがをしなければいいが>と心配になります。

岩石や木枝が露出し足下は常に不安定というのが高山では当たり前です。

崖をよじ登ったり下ったりし、思いがけず岩に膝や腿をぶつけることはしばしばです。

足を滑らせて小さな転倒をするときもあります。

暑いから、歩きやすいからといって、短パンでの行動は慎まなくてはいけないと思います。

北ア初縦走の1年生部員が8人のうち5人です。

経験ある上級生が、服装にも気を配るというものです。

そうした気遣いが働いていれば、A君をぎりぎりのところで救えたかもしれません。

 

「立ち止まる・やめる」という安全登山

A君ら8人パーティの薬師岳遭難は、1989年9月3日に起きました。

その17年前に同年齢で同じ道のりを縦走した者として、また、亡くなったA君と同じく初の北アルプス長期縦走を経験した者として、わたしにとって深い関心を持つ遭難でした。

その年の10月、初雪の北アルプス立山で平均年齢55.5歳の中高年団体10人のうち8人が死亡する真砂岳遭難が発生しました。

猛吹雪にさらされた末の低体温症が死因。

大事故として全国ニュースになりました。

風雪へと悪化していくのが明らかなのに、登山を中止せず3,000m級の尾根を縦走しようとした果ての遭難です。

リーダーシップ(やめるという判断)がここでも問われます。

「3人寄れば山岳会、そんなものばっかやぜ」

目的とする山頂や行程を目指すことに前のめりになり、危険を顧みないようなにわか団体が多いという指摘です。

遭難救助の前線にあるベテランにA君らの遭難について話を聞いていて出てきた指摘です。

薬師峠のテント場
(死亡したA君ら8人パーティが、スゴ乗越から目指した薬師峠のテント場。ここまで下ると風雨を和らげる樹林がある。A君は、ここら折立へと下って下山する予定になっていた。遭難は、その前日に起きた=2012年7月)

A君が命を落とした歳月は重なり、ほかの7人はもう50歳の声を聞きます。

お子さんが遭難時の自分の年齢の方もいるでしょう。

中間管理職あたり、社会の中心で働く年代です。

中高年となった今も山歩きを続けているのでしょうか。

きっぱりと山と縁を絶ったのでしょうか。

たとえ山から遠い日々であっても、苛酷な経験をし、生き永らえた者として、その遭難を忘れることはできないことでしょう。

遭難現場に立ってあの日のA君に思いを語りかける方がいるかも知れません。

遭難報告書を作成すると聞いていましたので、ごく最近(2020年1月)A君が所属した山岳会をネットで検索してみました。

遭難報告書はありませんでしたが、中高年のOBが山岳会体験を有益だった、社会に出て支えになったと懐かしそうに書いてありました。

 

(この項 終)

*次回から1972年、19歳の夏山縦走、薬師岳以降に戻ります。

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太郎平から南の高原
第4章 初の北アルプス縦走・唐松岳から上高地へ⑥~黒部源流の青空~

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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは5年目(2020年4月現在)

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