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【第4章】補遺・薬師岳遭難⑤
山行データ19歳。大学2年。 1972年7月28日ー8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山 ...
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山行データ
1972年7月28日ー8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山。4人パーティ。
★3,000m峰は立山(3,014m)と槍ヶ岳(3,180m)
へばった1年部員B君はセカンドへ
亡くなった新人部員のA君と同じく1年生部員のB君の体験をさらに聞きます。
ポイントは二つ、8人のパーティがバラバラになったいきさつ、A君とほかの7人の生死を分ける何かがあったかを検討することです。
――スゴ乗越(野営場)から尾根に出ると、風雨は強かった?
「始めは歩きにくいこともなかった。(薬師岳・2,926m)頂上までは順調にいっていましたから」
――A君は8人のどこらあたりの位置でしたか。
「僕はかなりへばっていてセカンド(先頭の次)に置かれたので、後ろのことは分からない」(注・A君はBくんより後方を歩いていたことがわかる)
(薬師岳山頂から薬師岳山荘へと向かう尾根=1989年9月)
薬師岳山頂まではパーティを維持
――薬師岳頂上までの休憩は?
「50分歩いて10分くらいと思う」
――A君の様子は?
「いつもと変わらない。みんな、あまり話さなかったです」
――薬師岳山頂からパーティがバラバラになったというのは、だれかの判断、指示ですか?
「後になって出ました。(僕の)前にいた3年生(サブリーダー)と後ろの3年生(リーダー)から」
――2つに分かれていくと?
「いや、そうではなく・・・」
――めいめいに行くと・・・
「気が付いたときは分裂していたというふうだった」(注・この話によってA君は山頂からの歩きで遅れるようになったことがわかる)
分裂するパーティ
――あなたはだれについて行ったのですか。
「僕は(北アルプスの縦走が)初めてなので・・・一生懸命でした・・・サブリーダーの後について、前ばかり見ていました」
――A君が薬師岳山荘手前でうずくまっていたのも知らなかった?
「風雨が強くて振り返ることができなかったのです。(ジグザグの下山路なので)体の向きによって、たまたま後ろが見えたときは、何人かが座っていました。それでパーティがバラバラになったと分かりました。迎えに下ったりとか、上がったりとかできる(気象)状態ではありません。サブリーダーが僕たち3人をひとまず、小屋まで連れていってくれました」
――(A君を含む)4人はリーダーが引率と・・・
「そういう形になったというか、後ろがついて来られずというか。前の者は歩きたいと思っているのに、後方の者は座り込んでしまった。僕としては歩くことしか考えなかった。後ろの者としてみれば、風が止むのを待とうとして(座り込んだのか)わかりませけれど・・・」
最後の体力を奪ったものは?
薬師岳山頂まではパーティのかたちを維持していたことがわかります。
しかし山頂を境に、暴風雨の直撃を受けるようになり、やがてパーティの編成を解く判断が出たことを伺わせます。
ばらばらの行動に陥ります。
セカンドのB君は山荘に避難できました。
暴風はおさまるどころではない。
ほかの部員は依然としてすさまじい破壊力の渦中です。
事態は好天の兆しを見せません。
深刻な状況です。
セカンドに置かれたということは、B君がパーティの中で最も消耗していたと見なされたのです。
薬師岳山頂時点ではA君の方がBくんより体力に余裕があったともとれます。
しかし山頂以降は、B君の後方を歩くようになったA君だけが犠牲になります。
小屋まで150mでA君は力尽きます。
暴風雨のただ中をしゃがみ込み、あと150m前進する体力をA君から奪いきるような何かがあったのでしょうか。
A君に健康上の問題はなく、縦走中にけがをしていたのでもありません。
体力に個人差はあるにせよ、「寒さ」と「疲労」という点から遭難時の衣類、着方に私の関心が向きます。
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【第4章】補遺・薬師岳遭難⑦
山行データ19歳。大学2年。 1972年7月28日ー8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山 ...
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