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【第7章】南アルプス越え①~高遠、新宿御苑、桜~
山行データ2005年7月26日~30日、53歳。 単独。伊那市・高遠から入山。戸台の山荘泊の後、北沢をさかのぼり仙丈ヶ岳、通称バカ尾根から野呂川に下り、北岳へ登り返し広河原 ...
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山行データ
単独。伊那市・高遠から入山。戸台の山荘泊の後、北沢をさかのぼり仙丈ヶ岳、通称バカ尾根から野呂川に下り、北岳へ登り返し広河原へ下山。
3,000m峰は仙丈ヶ岳(3,033)と北岳(3,193)。
ダム湖のたもと、旧道の道祖神
昼下がり。
台風の接近の気配は空に乱れる雲。
一瞬雲が切れ、真夏の陽光がジリジリと腕や首筋に照りつけます。
雨粒も落ち、傘をさしたりたたんだり。
前方に逆三角形の壁面が、ふさがるほど大きくなってきます(上=2016年撮影)。
天竜川の支流三峰川をせき止めた美和ダムです。
上流はダム湖。
高遠市街で見た三峰川の細い川筋は、ここで流れが寸断されているからです。
人の体でいえば、血管を縛ってごくわずかに血が流れているのと同じです。
(高遠市街の三峰川。水量は少ない)
わたしが歩くダム右岸は立派なアスファルト道路。
しきりに行き交う車。
路傍に細い旧道。
道祖神が、その脇に、所在なげに。
道祖神というと松本あたりの安曇野。
田園地帯などでは至るところで見かけますが、伊那谷では新鮮です。
(旧道そばにひっそりと道祖神)
車社会、ネット社会が到来する遙か昔、街道を歩いて旅する人々の安全と安らぎ、野が香ります。
近代ダムに押しやられた一体は、庶民の足跡を伝導します。
伊那市の一地域になる前、高遠、長谷は独立した山里、自治体でした。
高遠町、長谷村はその名を残しますが、ダム建設と地方衰退・市町村合併は繋がります。
思いは北海道静内町(太平洋沿岸のまち)に飛びます。
日高山脈ペテガリ岳と高見ダム
縁はわたしの日高山脈の山歩きを先導してくれた静内町(当時)の山岳会。
30数年前の初夏、当時苫小牧市に住んだ知ったペテガリ岳(1736m)登山大会に、小躍りして参加しました。
苫小牧から静内まで車で1時間もあればいいですから。
今や静内町は三石町と合併し「新ひだか町」の一行政区です。
ペテガリ岳登山のために市街から40キロの山中深く、右手の樹林の向こうに湖面が見えました。
戦後の開拓集落「高見」が水没しているのでした(本記事末尾 注)。
高見ダムや、目の前に広い美和ダムにとどまらず、戦後日本の水力発電源などとして全国各地で山奥へ山奥へと多数建設されてきました。
北アルプス薬師岳山頂から眼下に見た有峰ダムもそうです。
立山・黒部渓谷の黒四ダムもしかり(下=2020年撮影)。
(黒部渓谷を黒四ダムはせき止める)
建設適地は水量豊かな、奥地の山里です。
高見や有峰のように住民は根こそぎ移転。
東京などの大都市は各地から働き手をかき集め、ダムによる発電、工業用水などの恩恵を受け繁栄し、山間に培われた民俗や文化は、郷土歴史館などに遺物や記録に残るだけです。
ダム依存はある種の文化破壊活動と見なせます。
やせ細る浜松・遠州浜の砂
もう一つ美和ダムから思うのは、浜松市一帯の遠州浜です。
(美和ダムとダム湖)
三峰川は伊那市で天竜川と合体し一路南下、天竜峡などの景勝地を作り上げて河口の浜松市を抜けて遠州灘に。
長さ200キロ余、標高差800mの水の旅。
仕事の関係から、今回の山旅の数年前まで4年近く浜松で暮らしました。
遠州浜は長く東西に延びる砂浜が特色。
大凧が五月の空を舞う中田島砂丘の「凧まつり」、砂を掘って産卵するアカウミガメなど、砂浜が風土を担っています。
その砂は南アルプス、中央アルプスが吐き出しています。
しかし、本流、支流に次々に建設されてきたダム群は、遠州灘へ土砂を運ぶ天竜川の仕事を否定します。
高齢の浜松っ子から聞いた言葉が思いあたります。
「もう、昔(自分の子供のころ?)だったら、砂浜は今よりも200メートルも300メートルも沖合、ずうっと沖まで砂浜だった。すっかり海岸線が引き下がってきている」
断層列島の真上を歩く
南アルプスを含む日本アルプスには、日本国内の3,000m峰が集約しています。
3,000m峰地帯は、フォッサマグナとか中央構造線という地殻のずれ・起伏によって複雑骨折、隆起し、日本アルプスを創造しました。
旧長谷村にあたる美和ダム付近は中央構造線の真上にあたるそう。
もろい山地は風化や浸食によって、休むことなく土砂を出します。
ダムを建設すれば、土砂がたまるのは当然。
天竜川の下流には戦後復興の希望を託された佐久間ダムがあります。
(ダムには土砂が溜まる一方だし、土砂も下流には必要みたいだ)というので、ダム湖から土砂を下流に流す事業が、ここでは行われています。
川の土砂を採取する事業所(プラント)もある。
土砂を運ぶ大型トラックもしきりに行き交う。
美和ダムが蓄積する土砂に比べれば、トラックが運ぶ一荷は広大な砂浜の雨粒ひとつにもならないことでしょう。
湖畔にはダム湖の景色を売り物に、道の駅があります。
誘客のためのしゃれた施設がこぎれいに立っています。
雨しのぎと一休みに、芝生に面した軒先にあるしゃれたテーブルに座らせてもらいます(下)。
盛夏、観光の書き入れどきなのに、人っ子ひとり見当たりません。
10時過ぎでは早すぎる?あるいは台風接近のせいでしょうか。
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【第7章】南アルプス越え③~戸台川から無人の丹渓新道へ~
山行データ2005年7月26日~30日、53歳。 単独。伊那市・高遠から入山。戸台の山荘泊の後、北沢をさかのぼり仙丈ヶ岳、通称バカ尾根から野呂川に下り、北岳へ登り返し広河原 ...
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(注)この開拓集落については、本多勝一『北海道探検記』(朝日新聞)にルポ。
当時の住民の何人かから、わたし(ゴン)は話を聞いています。
旧住民らからうかがった経験談などをまじえ、いつか日高山脈の山旅を『余話』にできればと思います。
戦争に煽られた満州移住と棄民政策が、日高山中にあります。