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南アルプス 登山記録 第10章[聖岳-赤石岳]

【第10章】聖岳から赤石岳⑦~大倉喜八郎の赤石岳~

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【第10章】聖岳から赤石岳⑥~「日の丸ラーメン」とアタック~

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大倉喜八郎:明治~昭和の実業家。大成建設や帝国ホテル、サッポロビール、東京経済大学などの創設者。現在の南アルプスの大井川周辺の山域の森林資源の開発も手がけ、赤石岳の頂きを大正15年8月踏んだ。時に90歳。現在の椹島から西へ突き上げる赤石東尾根(別称・大倉尾根)をたどった。どういう山旅だったのか。

 

お付きの者は百余名

「大倉翁 きょう出発 南アルプス」

『静岡民友新聞』(8月1日付け)の見出しです(旧字、旧表記は現代ふうに改めました=以下同様)

 

記事によると、秘書や現場森林事業の重役や医師2人、ガイド、食糧、通信、活動写真班らの「百余名の大隊である」

大倉が自ら数えで90歳(現在でいうと88歳)を節目とするイベントです。


(大倉が新聞社の求めで揮毫したという色紙)

 

出発を前触れ報道するのは、現代の一般紙だと、「首相 今日訪米」などという大きなできごとです。

登山にあてはめれば、世界が注目する未踏峰に今日にも到達というほどのぎょうぎょうしさです。

 

記事は連日大倉の動向を伝えていきます。

この時代の山歩きと世間を展望してみます。

 

明治のウエストンが健脚を発揮した日本アルプス探訪、そこに刺激を受けた小島烏水らの山行が紀行文を通じて山岳自然の魅力を発信し、登山が一般市民へと広がっていきます。

学校登山も始まっていて新田次郎小説『聖職の碑』は大正1年8月末に起きた中央アルプス木曽駒ヶ岳の学校登山の事実を題材にしています。

 

籠に乗って、花火の歓迎

2日付け記事には、東京駅を列車で出た大倉が静岡駅で県知事らの出迎えを受け、クルマで大井川奥の農家に一泊するとあります。

 

「今二日は、老体なので籠に乗り鳥森山の険を越え古今未曾有の大名登山の壮挙に就く筈である」

 

大倉の赤石岳行は現在でも時々、異聞のように紹介され、「大名登山」の見出しが見られます。

静岡県知事の出迎えを受けたことも、事業家大倉の影響力がうかがえます。

 

「大日峠も大元気で突破 至る所で大歓迎の大倉男」


(右下の椹島から赤石岳へは登り一辺倒)

 

花火の打ち上げ、湯茶のもてなし、そして大日峠では井川の人たちがアーチを掲げて旗を立て幕を巡らせ大倉を歓迎した。

いよいよ井川の集落に入れば、有力者が紋付袴で出迎え、ここでも歓迎の花火が空に咲き開いたというのである。

 

大倉はゴキゲン。

 

まるで大倉を主人公にした芝居の一幕ものです。

 

台本も演出も監督も何もかもがご本人の懐から出た蕩尽によるところでです。

自己演出が激烈です。

 

標高差2000メートルを運ばれて

椹島大井川の中継地点で赤石岳への登山起点。

わたしは下りで3度歩いていますが、随分ときつい尾根です。

 

現在の登山路で標高差約2000メートル、登りで8キロ、9時間ほどかかります。


(奥に聳える赤石岳。カールが鮮明にくぼんでいる)

 

赤石岳山頂部をのぞくと、赤石小屋から下方はずっと森の中ですので、夏山だと直射日光を遮ってくれます。

 

大倉は籠を降りて直射日光の洗礼を避けてその尾根を登った?

 

いやいやどうして、籠の人から人の背に赤ちゃんのように負われて山頂に運ばれました。

大倉の赤石行椹島からの登山道開設の意図があったと、ネット記事にあります。

 

山頂で同行者に囲まれ羽織袴姿で万歳、井川集落でも歓迎ぶりの写真もあります。

 

山頂では一升樽を割って祝福、万歳。

下山後は静岡駅前のホテルで新聞記者の取材に応じている。

 

発言の内容から、90歳という年齢をバネに、世間を驚かせてやろうという動機付けがあったようです。

自分が持つ山ですから好きにできますし、財力はたっぷり。

 

(山歩きが趣味だから。憧れの赤石岳に)

 

山歩きの愛好家がよく口にする心情とは縁の薄い発想のようです。

 

赤石山頂では一風呂すら浴びたようです。

むろん、風呂桶などは下から運んで。

 

大倉は恐悦至極、愉悦の酔いに浸ったことでしょう。

 

大名登山、あるいは道楽放蕩?

「大名登山」

これが、当時も現在の大倉の七日間の見出しです。

 

けれど、どうしても「登山」という言葉にソワソワが止まりません。

だって、歩いていない。

 

現代なら、ヘリコプターで山頂に降り立つようなもの。

バスで山頂直下まで行ってしまうようなもの。

 

人や物を動員して、自分は歩くことはしないで山頂に立つのは、登山とは別モノです。

登山=自ら歩く。この一点は譲れません。

 

記事にはこうあります。

 

翁の感想に曰く「赤石踏破で得たものはといえば絶頂を極た刹那下界を眼下に見て人間の醜昧を忘れ真の仙人の境地に置かれた雄大なる山そのものゝような心地であった」

 

日々のストレスから解放されて心身ともリフレッシュすることが、山歩きの大きな効果の一つという視点に重なる自省に読めます。


(赤石岳山頂付近から頭上にガスをまとう別名・大倉尾根を見下ろす)

 

しかし、自省とは別に、ホテルにはお祝いの電報が各方面の名士から次々に届いていると記事は紹介していますから、人間の醜昧に呼び戻されているわけです。

 

大倉は東京へ、仙人の境地とは対極にあるビジネスの戦場へ戻っていきます。

 

道楽、放蕩、唯我独尊・・・いろいろな言葉が当てはまりそうな足跡が赤石尾根には刻まれたのだと思います。

 

名のある赤石岳をダシに稀代のピエロを自ら演出し、上から目線で追従者に揺られた七日間だったというと、あまりに突き放し過ぎでしょうか。

 

続きの記事
【第10章】聖岳から赤石岳⑧~山との出会い、崩れる林道~

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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは9年目(2024年4月現在)

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