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南アルプス 登山記録 第11章[南アル-富士山、田子の浦]

【第11章】南アルプスから富士山、田子の浦へ㊦5~潮騒に素足を洗う

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【第11章】南アルプスから富士山、田子の浦へ㊦4~ブルドーザーだって登る

山行データ2006年8月4日~5日、53歳。単独。冨士浅間神社から旧道を経て五合目。山頂を踏みできれば、一気に太平洋の田子ノ浦の潮まで踏破する。   ふた昔と弾丸登山 十年をひと昔というなら ...

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山行データ

2006年9月15日~16日、53歳。単独。富士山静岡側五合目から下り、駿河湾・田子の浦で登山靴を脱ぐ。

 

田子の浦と海のにおい

高さ3メートルかと見えるコンクリートの護岸が、左右に長々と伸びている。

海岸らしく、松の木がちらちらしている。

 

平屋建ての住宅が護岸近くまで並ぶ。

膝の痛みをかばいながら護岸の階段をのぼる。

 

一番高いところに立つ。

視界いっぱいに海が広がる。

風が強い。

 

やや曇りの空の下に、海面がせわしなくしわを刻む。

小型の漁船が波にもまれながら沿岸を過ぎてゆく。


(日本海の親不知海岸)

 

ようやく、ここまでたどり着いたのだという感慨がこみ上げる。

波打ち際まで数十メートルの砂利である。

 

そこで日本海親不知の切り立った断崖と、槍ヶ岳など日本アルプスの峻峰、そして富士山を経て太平洋とが一本の線でつながる。


(高山植物と残雪が華麗に広がる五色が原。19歳の夏は暴風雨と落雷連発の修羅場だった)

 


(西鎌尾根で槍ヶ岳を背に。初縦走から40年後)

 

赤鉛筆で、五万分の一の地図に、最後の軌跡を引けるのだ。

足跡をなぞれば、それは小躍りするほどの楽しみ。


(中ア・木曽駒ケ岳を経て南アへ進む=遭難碑付近)

 

素足で波打ち際を歩く

何か、完結の記念をしよう、などと案じてきたわけではない。

 

海岸を絶え間なく洗う潮騒を前に、登山靴を脱ぎたくなった。

 

裸足で打ち寄せる波にひざ下までつかり、波と追いかけっこになる。

波が引くと、くるぶしまで砂地に潜る。

 

ひとりきりと9月の海岸である。


(親不知では顔を洗い清める)

 

まるでガキだナ、と苦笑する。

途中の食料品店で、買ってきたものがある。

 

赤飯とおはぎ。

 

たまたま並んでいるのを見て、空腹がそそられた。

 

今でこそスーパーマーケットでありふれた食べ物だが、わたしの子供のころはよほどのお祝いか、目出たいときにしか口にできなかった。

 

それらを並ぶ護岸ブロックに載せる。

お供え?

 

なにものかに感謝したい感情が、そうさせた。

なにものかが、あまりに漠然としている。

 

ただ、日本海~太平洋の山旅が終結するのなら、感謝する対象はやまほどあるような気がする。

 

最後の二日間を歩く

前回は富士山静岡側の五合目まで。

今回は、そこまでバスで戻ってからの行程である。

 

レジャーランド、ゴルフ場、自衛隊の演習場、農地、茶畑などが山裾に広がっているので、その気になれば全行程は舗装道路を歩きとおすことができる。

 

しかし、それではつまらない。


(古い時代の富士登山。御殿場口から3合目とある=絵葉書)

 

できる限り旧道(登山道?)を歩きだしたのだが、ゴルフボールがすぐそこまで転がっているところから遠のいていくうちに、どうやら自衛隊の演習地付近まできてしまったらしい。

 

引き返し、林道のような砂利道をたどって、ようやくアスファルト道路に戻るというのだから、お粗末なものだ。

 

すっかり暗くなり、たまに明かりがともる宿の案内があり、よほど玄関をくぐろうとするが、リュックの中にはテントも食料も詰まっている。

 

結局、夜も8時をしおに細い未舗装の脇道に入り、叢に囲まれてテントが張れる場所があったのを幸いに、一夜を結んだ。

 

耳の中に入ってきたのではないかというくらいの耳元で、りりりと虫がしきりに鳴く。

やさしく耳の底に響いて、富士山麓の秋が染み透ってくるのだった。

 

テントの外で小用をたしたときに見上げた星空は、素晴らしい宝石の乱舞だった。

 

さまざまな開発が進む山麓の高原とはいえ、まだまだ大気は澄んでいる。

 

日本海から太平洋までを振り返れば、歩くにつれて目にした風光の、なんと微細・変幻・自在で美しかったことか。


(岳沢を抱える穂高連峰)

 

身を清める海

今朝は5時過ぎにテントの中でラーメンを食べる。

下りに下る最後の行程は、膝への負担がじわじわと蓄積する。

 

ツクツクホウシが鳴きしきる。

この蝉も秋の先導者だ。

 

茶畑の広がりの下方に、製紙工場の高い煙突が際立つ。

 

小学校、茶畑、住宅、振り返れば富士山は見えたり、かすみに隠れたり。

青空に白雲。

 

東名高速道路を陸橋で渡る。

海岸に工場地帯が展開する。

 

区画された長い舗装道路にうんざりし、膝を励ましながら、目の前の護岸を越えるばかりになる。

 

田子の浦を最終地点としたのは、10代のころに知った一首に遠因する。

 

(田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける)

 

加えて、古い時代の静岡側からの富士登山田子の浦で身を清めてから出立したということ。

 

そしてもう一つ。

 

高度成長時代の全国的な環境破壊のころ(昭和40年代)、田子の浦も汚染がひどく、そこの廃水で写真が現像できてしまったという趣旨の新聞記事を読んだ衝撃である。

 

半世紀以上がたち、2006年9月16日午後1時田子の浦の海は、汚染しきったころとは違う。

 


(波打ち際で長い旅の記録ノートを閉じる)

 

手足、顔を海水で清めてから古道を訪ねる富士山なら悪くないなと思って海を見やり、背後を振り返る。

 

その山は靄の中である。

 

(この章終わり)

 

 

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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは9年目(2024年4月現在)

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