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中央アルプス 登山記録 第2章[中アル越え]

【第2章】最終回 中央アルプスを越える⑦~駅そばの小景~

 

前回の記事
信州そば発祥の地の案内柱
【第2章】中央アルプスを越える⑥~パトカーと信州そば~

    山行データ52歳。2005年6月16~19日。新宿~木曽福島へ列車。16日はバンガロー泊、17日は無人避難小屋泊、18日は木曽駒ヶ岳をへて伊那市泊。19日は高遠まで歩き、帰 ...

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山行データ

52歳。2005年6月16~19日。新宿~木曽福島へ列車。16日はバンガロー泊、17日は無人避難小屋泊、18日は木曽駒ヶ岳をへて伊那市泊。19日は高遠まで歩き、帰京。
★御嶽山(3,067メートル)を越えた翌年にあたる。3,000メートル峰はこのルートにはないが、南アルプスにつなぐために、中央アルプスの最高峰・木曽駒ヶ岳(2,956メートル)を踏む。

 

 

高速道路と伊那谷の変貌

水田の青々とした稲などをみていくと、中空を横切る灰色の橋があります。

高速道路。

もう伊那市街に近い。

 

岐阜県恵那山トンネルをくぐり、名古屋から飯田へ抜け、伊那を過ぎて塩尻方面へ伸びていく中央道です。

 

私が学生のころ(1970年代前半)。

名古屋信州を結ぶ車道は狭く暗い木曽谷をくねる国道19号か、天竜川沿いを飯田方面に北上する国道153号。

 

中央道建設はすでに着手されていて、伊那谷は高速自動車道路網で中京、関東と連結され、地域社会が大きく変貌しようとしていました。

 

伊那谷出身の元朝日新聞記者・本多勝一さんが、まさに中央道建設の時代に伊那谷をルポし『そして我が祖国日本』(朝日新聞社)の中で、「わが故郷」にまとめている。

 

ルポには老人の自殺、大資本による観光開発などに注目して、高速道理などの大規模開発が地域文化を破壊していると警告している。

 

それから40年ほどたっています。

クルマも高速道路も便利さを増すばかりです。

 

あっという間に目的地まで連れて行ってくれます。

クルマ社会はこれからも進化していくことでしょう。それは自然な流れだと思います。

わたしもその恩恵をたくさんもらっています。

 

二本足で歩く自由

しかし、それでも二本足で歩くくらいの自由は留保し続けたいと思うのです。

 

とかくするうちに、14時間の行程は最寄りのビジネスホテルに一室を得て終えます。

 

会社に入って30年というので、二十日間ほどの休暇があります。

今回はそのうちの4日を取ったのです。

 

一度にとれるほど、職場に人の余裕はありませんからね。

ホテルの近くに大きなスーパーがあったので、そこでビールやらつまみやらを買い込みました。

 

スーパー店内には、明日が父の日だと広告札がずらっと並んでいました。

世間の動きにグイッと引き戻されました。

 

シャワーを浴びてあてなくテレビ番組を切り替え、のんびりを決め込みます。

 

繁華街に出直し伊那食にたどり着くだけのバイタリティーは、さすがに残っていないのです。

 

伊那谷は馬刺しどころでもあり、スーパーにも売っていましたが、あまり触手は動きませんでした。

 

 

天竜川を渡り、高遠まで

川
(暴れ天竜の片鱗も見せない天竜川を渡り、高遠へ)

 

翌朝は梅雨時とも思えない快晴。

6時45分ごろホテル出発。

早朝の伊那市街はほとんどクルマの通行もなし。

中心繁華街のシャッターもこの時間では軒並み下りたまま。

 

暴れ天竜の本性を隠して緩やかに流れる天竜川を渡り、高遠への主要幹線道路沿いに歩き続けます。

 

日が高くなるのにつれ、道路沿いのゴミ拾いの地域活動の人たちや、畑で玉ねぎの収穫をする婦人らを見かけます。

 

一人一人の人生の一日が動き始めているのだなと思います。

朝食はコンビニで買ったサンドイッチ。

歩道の木陰で食べます。

 

天気はいいのですが、振り返る空に木曽駒ケ岳はありません。

大気が湿気でよどんで隠れているのでしょう。行程を尾根に目でたどれないのは残念です。

 

高遠のバス停に着いたのが10時5分。

それでも3時間半、アスファルト道路を歩いたことになります。

 

時間からいえば、もうひと踏ん張りし、南アルプス・スーパー林道の登山バスの発着所までいけるのですが、気持ちがまったく前を向きません。

 

高遠からバスに乗って伊那市駅へ戻り東京へ帰ることにします。

 

JR伊那市駅の構内に入ると、思いがけず駅そばの店がありました。

 

小さなカウンターの中は、60台かと思われる、ゆったりとした物腰の女性が一人。

天ぷらそばを注文、350円、安いものです。

 

幅の狭いカウンターに立ち、かきこむ場所の空気感になごみます。

 

列車が一時間に一本ほどの時間の流れのままに、構内はゆったりと静かです。

 

今日は日曜日、その昼どき、先客は中年夫婦一組だけです。

 

目の前に差し出されたつゆが湯気をあげるどんぶりに次いで、ヤクルトが一つポンと置かれました。

サービス、どうぞ。

いいから、いいから。

 

好意です。

遠慮なく、酸味を流し込む。

 

おそらく10数年ぶり。

 

駅そばは家族の娯楽

夫婦と店主の会話がすぐそばです。

夫婦は子供たちが幼いころ、休みのご馳走というと、駅そばを食べに出かけたそうです。

子供に、好きなもの、何でもいい、と誘っても、返ってくるの答えは駅そばだったそう。

成人した今も駅そばが好物という。

 

「通学の学生が、よく食べるのではないですか」私が聞きます。

 

「学生は来ないね、コンビニがあるからね。300円あれば、コンビニでしゃれたサンドイッチとか買えるから」

 

「駅そばというと、列車がいつ来るのか、はらはらしながら食べるから、落ち着かないのでしょうかね」

 

それには返事がない代わりに、

「コロッケをいれたそばなんて、おいしいのよ」

 

先客の婦人が受けて、

「今どきの学生は、お金もあるのよね、きっと。さて、そのコロッケを四つもらってゆくわ」

 

「揚げたてだから、おいしいですよ。一つ50円で200円です」

 

「あら、五つも入っている」

 

「四つだと、パックにすきまができてしまうから。いいの」

 

「あらぁ、ヤクルトもご馳走になって、これじゃぁ、商売にならないわよ」

 

「いいから、いいから」

人と人の心情が響き合うやりとりを楽しく聞かせてもらいます。

列車
(伊那市駅に上諏訪行の列車がゆったりと入ってきた)

 

間もなくチンチンチンと遠くに鐘が鳴り、ギイギイいいながら車体を左右に揺すり上諏訪行の列車がのっそりとやってきました。

・・・何年かのち、山旅で再び伊那市駅に寄ったけれど、駅そばの店は跡形もありませんでした。

 

(第2章:中央アルプス越え~終わり)

 

*次章は上高地~焼岳~乗鞍岳~御嶽山麓です。
第1章の御嶽山へつながる山旅です。

 

第3章
焼岳噴火口
【第3章】上高地・焼岳・乗鞍岳・御嶽山麓まで①~歩行者は邪魔、らしい~

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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは9年目(2024年4月現在)

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