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中央アルプス 登山記録 第2章[中アル越え]

【第2章】中央アルプスを越える③~避難小屋について~

 

前回の記事
木曽駒山頂
【第2章】中央アルプスを越える②~古道の物語り~

    山行データ52歳。2005年6月16~19日。新宿~木曽福島へ列車。16日はバンガロー泊、17日は無人避難小屋泊、18日は木曽駒ヶ岳をへて伊那市泊。19日は高遠まで歩き、帰 ...

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山行データ

52歳。2005年6月16~19日。
新宿~木曽福島へ列車。
16日はバンガロー泊、17日は無人避難小屋泊、18日は木曽駒ヶ岳をへて伊那市泊。
19日は高遠まで歩き、帰京。
★御嶽山(3,067メートル)を越えた翌年にあたる。
3,000メートル峰はこのルートにはないが、南アルプスにつなぐために、中央アルプスの最高峰・木曽駒ヶ岳(2,956メートル)を踏む。

 

 

木曽駒ケ岳クラシック・ルート

南北に長い長野県伊那谷の、ことに北部の伊那市近辺の人たちには、二つの駒ケ岳が郷里の山としてあるそうです。

 

「東駒」(ひがしこま)と「西駒」(にしこま)です。

 

諏訪湖に発し遠州灘に南下する天竜川の両岸の高地に広く開ける伊那谷

 

伊那市付近からだと東(南アルプス)に甲斐駒ケ岳が三角に際立ち、背負うようにして西(中央アルプス)に木曽駒ケ岳が対峙します。

それで、二つの駒ケ岳を、東駒、西駒と言い分けているのです。

 

いずれも山麓住民に親しまれるシンボルの山ですし、多くの登山愛好家を集めます。

 

私が伊那市へ下る前に休息したのは、木曽駒ケ岳(西駒)の西駒山荘の立つ平地です。

 

桂木場に始まる木曽駒ケ岳へのクラシック・ルートの中途にあたります。

 

ぐるっと広く見回すと、このあたりは地形や植物の表情がくっきりと別れる境目に当たることが分かります。

 

ここより標高が高くなると砂礫、ハイマツ、岩石の高山帯が頂上まで続きます。

私が残雪を見やりながら下ってきた道筋です。

 

山荘から下って行く山肌はというと、すぐに潅木林から森林へと、山肌は著しく緑豊かな生命を宿して膨らみます。

 

桂木場から木曽駒登山は日帰り往復も可能だが、天候の悪化や疲労具合によっては、無理をせずにどこかで一服したくなる距離感です。

そこに手を差し伸べるのが西駒山荘です。

『聖職の碑』(新田次郎)にある学校登山遭難への反省から、避難小屋として出発した施設といいます。

濃が池(ウ)
(氷河時代の名残りの濃ケ池を右手下に見ながら、木曽駒山荘へ。まだ残雪が多い)

 

西駒山荘

風邪気味で咳がなかなか取れず、大事を取りながらの中央アルプスを越えているのが、今回の私の山旅です。

桂木場への下りを前に、ドラム缶が入り口付近にいくつか置かれ、石積みに囲まれた古風な西駒山荘を見ながら休憩していると、伊那側からゆっくりと登山者がやってきました。

見たところ60歳代の男性です。

 

「長い登り道ですねぇ」

 

と前かがみになりながら足を運び、私を見つけて問わず語りです。

桂木場の登山口から標準タイムで5時間弱。

ここから木曽駒山頂までは2時間ほど。

遭難碑までは10分。

 

「さっき、山頂からほどない岩場の急斜面で、若者四人とすれ違いましたよ」

 

中年男性を後にし、若者は体力にものをいわせて先行したのでした。

 

「私は、しんどいから、ここまでにして、下ることにしようかと・・・」

 

小休止のうちに男性は翻心したようで、山頂方向へ歩き始めるのでした。

――行くか下るか、そういう判断のしどころに西駒山荘があるのです。

伊那小屋
(西駒パンフレットから。大正時代)

 

伊那小屋創建への想い

私がこの山荘を見てから11年後に、山荘の石室が登録有形文化財に指定されたそうです。

最初の小屋は遭難から3年後の大正5年。

 

それ以来、当時の遭難救助にも協力した山麓集落のたちが維持管理を勤めるなど、現在の基礎を作ったというのです。

 

少年ら11人もの命を一夜にして奪った遭難は、大変な悲しみと心の苦痛を長く残したにちがいありあませが、学校登山そのものの廃止・中止というのではなく、継続し、安全にやってもらいたいという意思の表れが、初代西駒山荘(当時は伊那小屋と呼ばれた)の創建だったのでしょう。

 

桂木場に近い山麓集落の方々の力があって、山中の石材、木材を利用したそうです。

私が通り過ぎたこの日、まだ管理人を含め人の気配はありませんが、現在は伊那市の支援で夏(7~10月)に宿泊もできる体制といいます。

 

登山者が少ないので一度は利用してみたい山小屋です。

ここで一泊、木曽駒山頂にこだわらず引き返してもいい。

木曽駒への古道(ウ)

 

木曽福島ルート・七合目避難小屋

二日目にお世話になった木曽福島側の七合目避難小屋もいいですね。

 

北陸の白山(2,702m)はログハウスふうの避難小屋があちこちのルート上にあり、何度かお世話になってきました。
完全に無人。

七合目避難小屋
(避難小屋は尾根から少し低く、木々に囲まれた場所にある。登山道の分岐点でもある。尾根に立つと西駒山荘方面の尾根が展望できる)

 

木曽福島ルートの七合目小屋も登山者を勇気づけてくれます。

小屋は森林限界の下にあり、質素な、気配りが行き届いたログハウスでした。

薪ストーブ、薪の備え、下駄箱にはスリッパ、救急箱(感冒、頭痛薬など)まであります。

 

ポリタンクには水まで備蓄されているではありませんか。

必要なものに気を配り、それでいてゴテゴテしていません。

 

体調が芳しくないので昨夜は早くに寝ることにしたのですが、歩き始めで目にした「熊出没注意」の看板が頭にあり、侵入口になりそうな2か所のカギを閉めて寝袋にくるまったのでした。

 

・・・幸い、クマさんの夜討ちはありませんでした。

 

三日がかりの中央アルプス越えに、大正2年の大遭難を物言わず語る西駒山荘、現役の木曽福島側の七合目避難小屋が強く印象に刻まれています。

 

登山者にとって安全は何より優先されます。利用者が少ないルート上の避難小屋はあり難く、心強いのです。

管理に当たる方々に深く感謝しつつ、伊那市への下山のリュックを背負います。

 

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中央アルプス小黒川
【第2章】中央アルプスを越える④~伊那谷へ逆落とし ~

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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは8年目(2023年4月現在)

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