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北アルプス 登山記録 第5章[槍・穂高-上高地へ]

【第5章】槍・穂高から上高地へ②燕岳から表銀座悠々

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北穂から槍
【第5章】槍・穂高から上高地へ①

  山行データ2002年7月31日ー8月4日、49歳。単独。 上高地から入山。槍沢経由で槍ヶ岳から南下し、大キレットを通過、穂高の連山を経て上高地に戻る。 ★3,000m峰は槍ヶ岳(3,18 ...

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山行データ

2002年7月31日ー8月4日、49歳。単独。
上高地から入山。槍沢経由で槍ヶ岳から南下し、大キレットを通過、穂高の連山を経て上高地に戻る。
★3,000m峰は槍ヶ岳(3,180)、大喰岳(3,101)、中岳(3,084)、南岳(3,033)、北穂高岳(3,106)、涸沢岳(3,110)、奥穂高岳(3,190)、前穂高岳(3,090)の8座を数える。

 

踏まざる槍ヶ岳山頂への思い

東鎌尾根_ウ
(東鎌尾根のやせてもろい岩の急傾斜で鉄はしごを登りきり、休む。キスリングを背に常念岳方面が開ける=1973年8月。下山後の自画像)

 

19歳の年、残雪の涸沢での雪上訓練と北穂高岳などへの登攀、その夏の黒部~立山~薬師岳~黒部源流~槍ヶ岳~上高地縦走によって、わたしとアルプスとのつながりができました。 

 

それから半世紀近い歳月が過ぎた現在(2020年)ても、五色ヶ原の落雷狂乱一夜や仲間の言葉と表情天候の変化や温度の肌触りを記憶しているところをみると、よほど強烈な経験だったのです。 

 

怠惰に過ぎる学生生活へ負い目いっぱい、かといって勉学への情熱は低いままだからこそ、遠く離れた不便な3,000m峰の高山地帯で過ごすことに、何か強靱な、前向きになれそうな刺激を受け取っていたのでしょう。

 

山に憑かれるわけでも、没頭しているわけでもない者に、 

 

(気が向けばまたおいでよ) 

 

無機質な高々とそびえる山塊が、そよと吹く低音で囁きかけてくるような気がするのです。 

 

縦走の足を伸ばせた槍ヶ岳剱岳の頂を踏まなかったことが惜しまれるのです 

汗水垂らし、唇を舐めた舌が塩気にピリッとする労苦の仕上げ自分への褒美山頂でのひとときが用意されているのだと。 

 

1973年夏、槍ヶ岳へ 

学生運動の余韻が残り、のちにリンチ殺人が明らかになる連合赤軍と警察とが発砲を交えて攻防した浅間山荘事件、札幌の冬の五輪で日本選手3人がジャンプで金・銀・銅を独占するなど、社会は激しく動いていました。 

 

田中角栄がたぐいまれな才能によって人心を掌握し、資金力を武器に首相の座に上り詰め、「今太閣」ともてはやされたのも、この時代1972年の出来事です。 

 

田中はアメリカ議会を震源とするロッキード事件(1976)栄華の夢から失脚していく政治劇を歩みます。 

 

そういう時代の1973年、20歳の日に槍ヶ岳山頂を目指します。 

 

まず前年と同時期の6月の残雪期に、上高地から一人で入山しました。 

多分、学校の講義は自主休講したのでしょう。 

 

なまくらな学生でしたから、寝坊などで勝手な休講は普段でもけっこうありました 

天気はよく初日は槍沢ツエルトを張り、翌朝、アイゼンを装着して残雪の多い急斜面をつめていきます。 

 

年末には槍ヶ岳遭難がありました。

そのための捜索のためでしょう、円形の大きな穴が雪面にいくつか開いていて、竹竿が立っています。 

静まりかえり槍沢を独り占めするような登りでした 

 

しかし、一人で歩くことに、わたしの小心は最高に張りつめています。 

斜面はますますせり上がるのにつれ雲ががぜん厚く走り三角の穂先を振り仰ぐあたりで引き返しました。 

 

その日登ってきたのは、30歳代くらい男性一人だけ。 

6月初旬の槍ヶ岳登山というのは、それほどにかなのでした。 

 

安曇野の田園を抜けて中房温泉へ 

その年の暑い8月下旬六畳の空気が淀んだ下宿の自室にいるのが息苦しくなって、どうにもやるせない気分です。 

こんな塞いだ心身では気が狂いそうです。 

 

冷房の効いたパチンコ屋で時間を潰すのも惨めったらしい。 

 

と、表銀座から槍ヶ岳こうといたちました。

月に断念した槍ヶ岳

その足で大キレットから穂高縦走~上高地まで歩いてやれ。 

PA060064_ウ

 

いわば、前年のやり残しを歩くのです。 

大糸線・明科駅で降りると、駅前に中房温泉行きのバスがありました。 

人の気配が薄い明るく白い、静かな午後です。 

 

赤っぽい松本電鉄登山バスは、わたしの貸し切りみたいなもの 

舗装してない田園の中の道を白い土ほこりを巻き上げて、四六時中細かく揺れながら山中に入っていきます 

 

安曇野の8月末の景色として、印象深く記憶に焼き付いています。 

 

中房温泉からは登りばかりの急坂が続く尾根道馬力に任せて歩き続け日没と同時に燕岳のテン場に着きます。 

3時に中房温泉、テン場は6時半。 

 

早出早着という山歩きの鉄則は、無視も無視。

一人旅、体力任せの行動です。 

 

けれど、3時間の尾根登りの効果はてきめんでした。 

胸の中にどんよりたちこめていたおりものは、おおかた吹き飛ばされていま 

 

槍ヶ岳を右手に口笛の足取 

ツエルト張り燕山荘で水を買い求めるとき小屋の中のラジオからは、フォークソングの「遠い世界に」が聞こえていました。 

 

〽遠い世界に 旅に出ようか それとも 赤い風船に乗って〽

 

わたしたちが、よく歌った歌です。

好きな歌でした。

 

フォーク・ギターもいじるようになっていて、弾き語りに夢中になった歌の一つです。 

 

ジィンと胸にしみました。

フンフンとメロディを口ずさみながら、いい気分でラジウスに点火し、コッヘル肉(ジングスカン)を焼いて食べてまったくごきげんな一夜です。

チョコレート一枚で登った後ですから。 

 

二日目。

快晴。 

 

谷を隔てた右手にはいつも、槍ヶ岳黒いとんがり帽子を青空にくっきりと伴います。 

 

見事と言うほか、ありません。

体ごと口笛を吹いているような足取りです。 

 

夏の終わりですが、すくないなりに登山者見かけます。 

明るい平坦な尾根で、女ふうの孫と一緒の老夫婦に追いつきます。 

休憩してリュックを背負い直すと、 

 

「このおにいさんについて、先に行くから」 

 

孫娘が言います。 

たまに振り返ると彼女が近くてもなく、遠くでもない距離でいます。

 

彼女の雰囲気を背中に意識して自分のペースで歩き西岳で小休止。 

振り返ると彼女は見当たりません。 

 

祖父母を案じてゆっくりすることにしたのでしょう。 

背中を寂しくして下りにかかり、今度ははしごもある東鎌尾根を登り返し

 

蒸し暑くなってきて体が発熱してかっかかっかしてたまりません。 

周りにだれもいないことを確かめて、ウールのニッカズボンも下着も下ろして、しばらく谷風に肌を涼しくして蘇るのでした。

 

 

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ゴン

1952年生まれ。 18歳で高校を卒業後、他県生活を30年余。 北海道、北陸、東京など、転勤に伴い転々とする。 退職後は2013年から自宅で小さな英語塾を開設。夫婦で小中高生や社会人と接する一方、夏秋になると北アルプス、南アルプスの山歩きをしている。 中学、大学でプレーした卓球を退職数年前に約35年ぶりに再開。地元高校のコーチは8年目(2023年4月現在)

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