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【第1章】御嶽山の②~火山にはひるむ…1977・有珠山噴火から~
山行データ51歳。2004年9月18~20日。 新宿(午前零時前)~塩尻~木曽福島へ列車。バスで覚明堂下車。 18日は7合目でテント、19日に山頂越え、一般道に出て木曽福島駅まで歩く。 ...
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山行データ
新宿(午前零時前)~塩尻~木曽福島へ列車。バスで覚明堂下車。
18日は7合目でテント、19日に山頂越え、一般道に出て木曽福島駅まで歩く。
20日、東京へ戻る。
御岳山は、この10年後の9月27日噴火し、死者57人・不明者6人の犠牲を出した。
標高3,067メートルは国内14番目。
110の活火山
日本には活火山が110あり、そのうち47山については、国が常時観測しているそうです。
それだけ警戒をしていても、噴火を予知し入山を制限・禁止するだけの精度の高い観測は無理と、御嶽山噴火ののち専門家が言っていました。
科学への信頼度がその程度なら、火山を登るにあたって、その破壊力、脅威を想像することは、入山の是非を含めて危険を避ける材料になるのではないでしょうか。
私についていえば、前回の記事で紹介した有珠山が最も強烈な一例です。
(雪をまとった樽前山。苫小牧市から。1980年代)
火山活動を目にする機会は、有珠山噴火の後もありました。
北海道では東部の雌阿寒岳(1,499m)、南部の樽前山(1,041m)、北アルプスでは立山(3,015m)がそうですし、焼岳(2,455m)もあります。
北陸の白山(2,702m)も忘れません。
火山性のガスを噴き出す火口や、ぱっくりと口を開く噴火口跡を目の当たりにした経験を尾張弁で言うと、
「でぇりゃあ、おそがいでかん」(恐ろしくてたまらない)
に集約されます。
足元が、大地が、山体が、まるごとゆさゆさと揺れる、または割れるかもしれないのですから。
北アルプスの岩の難所・大キレットを通過するのとは、まったく異質です、これは。
臆病であること
安全のために一番いいのは、火山に近寄らないことです。
火山は遠くから眺めるに限る、という態度です。
これは立派な山との距離感です。
臆病者と笑われようと、命あっての山歩きです。
臆病であることは大切な資質、心の持ち方だと思います。
それでも行くのなら、活火山の最新情報を集め、装備や緊急対応を含め、覚悟と用心が必須です。
こんな見解も、考えるヒントになるのではないでしょうか。
山に対する何らの正しい、知識訓練もなくして山へ登って死ぬ人がある。これはハイカーが山で死んだのである(『登山の文化史』桑原武夫)
御嶽山登拝
私が育った濃尾平野は、御嶽山に発する木曽川に、飲み水、農業用水をもらっています。
心では仲間が集って登拝する御嶽講が盛んです。
生活を支える山、心を浄化する山、それが御嶽山なのです。
地区の掲示板に、御嶽詣での勧誘を最近でも目にしました。
半世紀前の1954年、私の母もそうして8月に登拝した一人です。
伊勢湾台風が名古屋市臨海部を中心に5千人以上の死者を出す前月のことです。
記念写真(8月8日付)を見ると白装束の一団です。
清新の白です。生と死を橋渡しする無垢の白です。
白服をよれて汚した母が疲れて帰ってきた夜のうれしさを、小学1年だった私は覚えています。
母の不在が寂しかったのです。
疲れたと言いながら、母はニコニコして闊達でした。
今にして思うに、今を生きながら死を意識し、現実の暮らしに戻る気持ちの切り替えがあったのだと思います。
今風にいえば、心のリハビリ、安息と再起動ですね。
小説『氷壁』(井上靖)は、紅葉と静寂の穂高から主人公魚津恭太が帰京する場面から書き起こします。
夜汽車が新宿駅構内に入ろうとするとき、赤くネオンがただれる都会の夜景を目に魚津は心の中でつぶやきます。
さあ、歩いて行け、人のむらがっている方へ。さあ、踏み出せ、大勢の人間が生き、うごめいている世俗の渦巻きの中へ(『氷壁』井上靖)
魚津の感覚は御嶽山登拝に当てはまるように思います。
現実の日々には、欲と欲、やっかみ、妬み、そしり、駆け引きがぶつかり合い、思惑や野心が満ち満ちているのですから。
御嶽神社境内の碑
濃尾平野の生家に近い森の小山にある御嶽神社の境内には背丈ほどの黒い石板が40基くらい並んでいます。
表には「清姫靈神」のようにあの世での名に霊神を添え、裏には俗名、没年が彫ってあるもの、年代では大正、昭和が多い。
(写真について)
自宅近くの丘の頂にある御嶽神社。
霊神碑が並んでいて、その最奥に、御嶽神社と大きく刻まれた碑がある。
手前から石積みが坂になって碑の基部に続く。御嶽山に登拝するさまを意識しているように見える。
その正面に立つと、碑の奥の方角、遥か遥か北に御嶽山の本体がある。遠い本山の懐に碑を納められなくても、
近辺に本山を見立てたのだと想像する=近影)
それと同じ、しかし膨大な石碑群のそばを10年前の9月に歩いたことは【第1章】御嶽山の①に書きました。
道端に階段状に並ぶさまは、宵闇がぐんぐんと濃くなるせいもあって、壮観を越え圧迫と息苦しさを感じました。
御嶽山に詣でる、石碑に霊神をも含む二つの名を刻み奉じる、それによって心という曖昧で不可解、脆くて不定形な難物を相手に、何百年というもの、生きる手ごたえを得てきた証なのだと思います。
中高年登山ブーム、山ガールとか言われる現代でも、太い細いはあるにしても、その水脈は枯れずに多くの人たちの胸に働きかけ、潤していると感じています。
繰り返しますが、御嶽山(3,067m)には標高2,200メートルまで、ゴンドラで苦も無く行き着けます。
便利です。
そこで起きた今年の御嶽山噴火と犠牲です。
科学文明の限界と脆さをわきまえ、愚直に分け歩いてこその御嶽山なのだという思いを強くするのは、そのためです。
(【第1章】御嶽山の項・終わり)
次回からは・・・
今回の御嶽山(開田村~御嶽山~木曽福島駅)からのつながりです。
便宜上、御嶽山を第1章とし、次回からを【第2章】とします。
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【第2章】中央アルプスを越える①~戦後60年と季節の巡り~
山行データ52歳。2005年6月16~19日。 新宿~木曽福島へ列車。16日はバンガロー泊、17日は無人避難小屋泊、18日は木曽駒ヶ岳をへて伊那市泊。19日は高遠まで歩き、 ...
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