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【登山余話17】南アルプス小太郎山、広河内岳~脇役の夏㊦~
山行データ 2021年8月26日―9月1日、68歳。単独テント。 名古屋から山梨県奈良田で駐車。広河原から入山。 北岳、間ノ岳、農鳥岳の3000m峰をたどり、北岳の北にある小太郎山(27 ...
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波砕ける襟裳岬から最高峰・幌尻岳へ
この夏山(2022年)を想像していると、北海道の日高山脈が現在の国定公園から国立公園へと昇格するというではないか。(6月15日新聞報道など)。
思い出深い山々と風土だ。
北アルプスが日本海の断崖親不知の海岸からせり上がるように、日高山脈は南の太平洋から荒々しい岩稜が屹立して襟裳岬となり、脊梁を北へ北へと高め分岐していく。
どちらの海岸も目に鮮やかな記憶があるが、北海道苫小牧市に住んでいた30数年前、ペテガリ岳(1736m)や幌尻岳(2052m)などを歩いた印象は今も鮮烈だ。
(幌尻岳山頂付近から七ッ沼、戸蔦別岳を見渡す=1985年9月)
最高峰は幌尻岳。
3000メートル峰には遠く及ばないが、入山しやすい北アとは違い、奥深さと森林の濃密さの洗礼を受けることになり、現代の登山者も圧倒的な野性を感覚するに違いない。
わたしが学生時代以来一番親しんでいる北アは、スーパースターの槍穂高連峰などの荒々しい岩稜の荒涼と開放感が大きな個性だが、日高山脈との個性の違いは歴然とする。
この機会に襟裳岬、ペテガリ岳、幌尻岳について記してみる。
襟裳岬の海は荒れるに任せ
襟裳岬には3、4度行っているが、最初の見聞が強烈。
まだ20歳代半ばで、札幌で仕事をしていた頃。
厳冬の週末に当時の日高線で終点の様似へ。
太平洋沿線を走る線路の左手に白く眩い雪原が開け、とことこと遠のいていく褐色の動物がくっきりと見える。
キタキツネ。
列車を振り向くと、何かを咥えているらしく口から赤い血が滴る。
目をこらすと、雪上に小さな赤いシミが点々と、キタキツネのいるところまでつながっている。
野性の生々しい生き様が胸苦しいほどだ。
キタキツネがまだ物珍しく感じる頃だった。
人の気配の薄い様似から乗り継いだバスは、襟裳岬に近づくにつれて海からの強風に直撃されるようになった。
あまりの風速に、岬近くの吹きさらしの台地を通過することが危険だというので、いくつか手前でストップ。
「ここからは歩いてくれ」と運転手。
おりたのは地元の1人とわたしだけ。
そこから宿まで、地吹雪に足をすくわれそうになりながら歩いた。
翌朝も強風が止まない。
岬の断崖の下の海を見やると、打ち寄せる大波の連続の中に胴長をつけた人が見える。
流れ昆布を拾って胸に抱えている。
過酷な風土がむきだしだ。
ペテガリ岳を手ほどきに
静内山岳会(当時)が初夏に催していた静内町民登山に加えてもらった。
(ペテガリ岳を背景に。山肌に残雪が張り付く=1986年6月)
日高山脈横断道路(静内と十勝を峰越しで結ぶ)の建設計画が賛否で加熱していて、ペテガリ登山の取り付きの山道が横断道路の一部になるという。
(ペテガリ岳へは静内川をさかのぼって取り付く。ダム建設現場が右手に=同)
数十人が参加し、ヒグマを警戒して猟銃を携えてハンターが同行した。
発射音が前方で鳴り、「遠くにヒグマがいたので追い散らした」と。
日高の山歩きには、ヒグマ警戒が必須なのだ。
登山そのものは、苦労の末に山頂に立ち、素晴らしい到達感と充実感がこみあげる。
四囲を見回せば、日高山脈の懐が深い。
帰路は途中で、残雪を利用してコーヒーのもてなしがあり、素晴らしい休憩になった。
(高齢者の参加を募るペテガリ岳登山大会もあった=静内山岳会撮影)
それが縁で、ペテガリ岳の山頂には秋を含め3回ほど立つことができた。
横断道路もその後、建設断念という結果になった。
山岳環境の破壊が予想される観光道路にならずにすんだ。
ナキウサギの幌尻岳から濁流を渡る
この山も静内山岳会のお世話になった。
秋の七ッ沼カールのナキウサギ探訪に同行。
男女7人のパーティ。
(夜の七ッ沼でたき火。「きっとヒグマが遠くから見ている」などと本気混じりの冗談を交わす=1985年9月・静内山岳会)
幌尻岳北にある氷河時代のカールである七ッ沼は、ヒグマ出没地帯としてつとに有名。
何年か前の秋には下山中に会員の目の前に樹上からヒグマが落下。
ヒグマはカッと口を開いて威嚇の姿勢を見せると、急に身を翻して森林の中に没していったという。
会員があっけにとられているうちの出来事だった。
ヒグマは木の実を食べていて、自分の重みで枝を折ったようだ。
テントを張った七ッ沼では、岩が折り重なった隙間から、小雨をついてヒヨコくらいの大きさのナキウサギがしきりに出てくる。
短く鋭い鳴き声もする。
(霧雨の中を岩の隙間からナキウサギが現れた)
外に出ると、数メートル先の岩の端にちょこんと座ってしばしジッとしている。
氷河時代から、小さいなりに、たくましく生きてきた。
この狭い岩場だけが、生き延びる場である。
帰りは大雨、強風。前夜には、テントのフレームが折れた。
幌尻山荘近くまで下ると、二日前の小川が怒濤の濁流である。
水位は腰まである。
ザイルを渡して、一人一人が緊張しながら渡りきった。
(幌尻山荘前で、濁流を渡る前に身繕いをする=静内山岳会撮影)
(ザイルを渡し、一人ずつ流されないように対岸へ=静内山岳会撮影)
幌尻岳というと、強烈な記憶として、そのときの仲間と決まって笑談する出来事になった。
*
「日本百名山」の一座だが、その秋の数日、幌尻岳はわたしたちだけを迎え入れた。
登りの初日、先頭を歩くわたしがふと見上げると、数メートル右手の太いダケカンバの幹に、カラスくらいの大きさのクマゲラが飛んできて垂直に止まり、すぐに飛び去った。
偵察にきたが警戒に値しないと、さっさと引き上げたのだろう。
こちらのクマなら、こちらも安心だ。
(注)ペテガリ岳、幌尻岳とも当時のルートを元にしている。
これから山行する場合は直近の情報が必要。
写真は断りがないものは筆者撮影。
その他は静内山岳会から筆者に個人所有の趣旨で提供されたものが大半。
(この項終わり)
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