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【登山余話2】利尻岳と二つの海
山行データ2016年8月28日。63歳。妻と同行。礼文岳登山の二日後。鴛泊登山口(5時間)利尻岳(4時間)鴛泊登山口。台風10号の接近が気がかりになっている。 青に浮き立つ ...
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国民の祝日「山の日」(8月11日)にちなむニュースやテレビ番組が、いくつか放送されていました。
東京都の最高峰雲取山の標高2,017mが西暦2017年の数字と同じだというので、随分な人気だと、山頂からの生放送もありました。
あいにくの天気で、展望はありませんでした。
雲取山には桜の季節と落葉の季節の二度訪ねていますが、天気に恵まれれば富士山が随分と近くに感じられます。
山登りが、自然に親しむ平和に担保された行為であることを、こうした報道から願わずにいられません。
八郎坂:名の由来
さて8月初めに、北アルプス立山を歩きました。
落差日本一(350m)の称名滝の落ち口近くから始まる「八郎坂」から弥陀ヶ原、室堂などを巡る旅でした。
八郎坂の存在は知っていましたが、歩くのは初めてです。
人の名に由来する登山道だとは容易に想像できます。
登山道には、表銀座の「喜作新道」とか、穂高の「重太郎新道」など、開削者を伝える名を見かけます。
故人ではありますが、喜作にしろ、重太郎にしろ、山岳世界では著名人です。
単行本から人となりもしのべますが、八郎は私にとっては未知の人物です。
登山口の石碑の裏にある紹介文は淡泊ですが、立山の麓にある立山博物館の記載をネット検索すると、こうあります。
- 八郎坂は、大正13年(1924)に、当時の第九師団富山連隊(歩兵第35連隊)によって開かれた。
当時の弥陀ヶ原は、一時的に軍隊の演習場に利用されていた。現在はケーブルカー駅がある千寿ヶ原からの立山禅定道では、大砲などの重火器が運搬できなかったため、称名滝から直接、弥陀ヶ原へ登る道になった。- 急坂のために「胸突き八丁」から”八丁坂”と呼ばれた。
登山者から、「立山の谷や尾根には、有名なガイドの 名前が付いている、”八丁坂”にも、名前を付けたらどうか」との話があり、当時有名な山岳ガイド佐伯八郎の名前をとって、八郎坂となった。- 昭和29年(1954)千寿ヶ原から美女平までケーブルが開通すると、八郎坂は荒れて利用できなくなったが、 昭和52年(1977)に整備されて現在に至っている。
(八郎坂の登りからは、垂直に落下する称名滝の全貌が開けてくる)
旧日本軍軍事道路
つまり、軍事道路だったというわけです。
佐伯八郎は、登山道開設に無関係なのです。
となりますと、八郎本人は、命名をどういう思いで受け止めたのでしょうか。
富国強兵は明治以来の旧日本の国是でした。
徴兵制も敷かれ、日清、日露、第一次大戦、第二次大戦へと、戦争に次ぐ戦争を戦い続けた旧日本のカタチの中に、八郎の日々もありました。
佐伯姓が示すのは、八郎が立山信仰のガイドの集落としてかつて繁栄し、その姓が多い芦峅寺と縁がありそうなことです。
戦争の時代を映し出す軍事訓練用道路に、自分の名が付けられることについて、何か思うところはあったでしょうか。
人物像の手がかりはないでしょうか。
(この項続く)
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【登山余話4】山の日と八郎坂(中)
称名新道から八郎坂へ 八郎坂命名のいわれと、山岳ガイド佐伯八郎の人となりの手がかりは、いくつか見当たります。 まず、命名から。 『立山黒部の歴史と伝承』(桂書房・廣瀬誠)が ...
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