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【第4章】補遺・薬師岳遭難③
山行データ19歳。大学2年。 1972年7月28日ー8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山 ...
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山行データ
1972年7月28日ー8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山。4人パーティ。
★3,000m峰は立山(3,014m)と槍ヶ岳(3,180m)
「風速35m」の暴風雨の中を行動
薬師岳(2,926m)の山頂を越えて薬師岳山荘(2,701m)まであと150mで岩影にうずくまってしまったA君は、頭を両手で抱えるように、ゆらゆらしていたそうです。
暴風雨は容赦なくA君を直撃し続けた。
「遭難当時の風速は35m以上あったんじゃないか」
という見立てをする救助関係者もいました。
風速35mというと、台風相当の暴風雨になります(注*)。
A君の死因について、「疲労のため」と『北日本新聞』の記事は伝えます。
この遭難を管轄した富山県警大沢野署の発表内容です。
ほかの縦走メンバーは助かっています。
同じ自然条件にさらされて行動しています。
A君にだけ、疲労が死につながる特別で個人的な健康問題があったのでしょうか。
あるとすれば、縦走そのものに参加させたことが問われます。
関係者に次の証言があります。
「体調に問題はなかった。持病もない。風邪をひいたのが、病気といえば病気。心臓の病もないということだった」
(薬師岳山荘への下山路は、尾根のガレ場をジグザグに下る。午後のガスがわいただけで、視界はせまくなる=2012年7月)
大正2年の駒ヶ岳遭難と通じる
持病の発症、転倒骨折、といった要因は否定されます。
では疲労が何によるのか、異論の余地はないでしょう。
吹きさらし、暴風雨の3,000m級の稜線を縦走して体力を使い切ったこと以外に、ありえません。
医師による後の判断は「急性心不全」、それは「疲労と寒さ」が起因だといいます。
この見立てからわたしがすぐに思いつくのは、新田次郎が小説『聖職の碑』で描いた中央アルプス駒ヶ岳の遭難です(山の本棚(2)参照)。
100年以上も前、大正2年8月26日の学校登山の高等小学校生徒ら37名が遭遇したものです。
登山隊は山頂で台風のただなかに、防ぐものもなく体一つで放り出され、てんでばらばらになり、11名が犠牲になりました。
わたしのブログでも中央アルプスの項でふれたこの遭難の死因は、まさに(疲労と寒さ)につきるでしょう。
- 大正2年は、登山の是非を判断する気象情報も精度が低い時代です
- 子供たちは尾根で台風にさらされ、逃げ込む施設はない
- 救助を求める通信手段もない
以上の三つはA君の遭難時には格段に向上しています。
それでも遭難しているのです。
「低体温症」は夏山でも起きる
A君らの遭難と、大正の遭難が起きた時期が近いことにも注意してみます。
3,000m級の日本アルプスの夏山は、ふつう梅雨明けからお盆過ぎあたりです。
夏山の盛りでも日没から夜間は身も縮むほど冷え込みますが、8月下順ともなるとさらに冷え冷えとします。
わたしは学生時代の8月下旬、一人で表銀座(燕岳~槍ヶ岳)をテント縦走しました。
二日目の槍ヶ岳につくなり夜にかけて大雨に見舞われ、逃げ込んだ槍ヶ岳山荘では小屋の梁が軋む暴風雨の夜を過ごしたものです。
翌日は大キレット通過を断念し、雨合羽を着て大雨に打たれながら槍沢を横尾へ下りました。
全身ずぶ濡れのひどいことになったものです。
その状態で無防備な3,000m級の尾根を歩き続ければ、おそらくA君たちと同じ境遇に陥ったことでしょう。
夏山の「夏」という言葉をマチの感覚で見くびってはいけないということです。
「低体温症」という言葉は当時聞いていませんが、A君についてそれを疑わざるをえません。
雑誌『山と渓谷』(2000年1月号)が「低体温症、その予防と対処」を特集しています。
医師による寄稿文です。
「99年も4月に浅間山で4人、9月に羊蹄山で2人が低体温症のためになくなった」
山岳遭難死で低体温症は珍しくないというのです。
太郎小屋から救護に駆けつける
先の寄稿文を2点に要約します。
- 体温が摂氏32度以下の重症の低体温症では、ふるえが止まり、歩くどころか立っていることも難しくなる。
精神活動に変調をきたし、寒さから身を守ることにまったく無関心になり、手袋を着けなかったり上着のファスナーを締め忘れたりしてしまう。 - 防寒が不十分だと短時間で低体温症になる、野外でいったん低下した体温を戻すのは極めて難しい。
以上を予備知識に、意識不明に陥ったA君の救護と容体へと遭難現場に戻ります。
急報が太郎平小屋にもたらされました。
偶然居合わせた看護師らが、雨の中を薬師岳山荘に駆けつけます。
太郎平小屋には夏季(7~8月)、臨時診療所が開設されていて、備蓄の点滴などを持っての救援だったといいます。
救護の人たちが手当にかかったとき、A君の瞳孔は開いている状態だったそうです。
「仲間はハダカになって寝袋に入ってA君を温めていた。あの子たちなりに、仲間を助けようと必死だったんだよ」
との証言もありますがA君の蘇生は叶いませんでした。
事態がこうなりますと、A君を死に追い込んだ「疲労と寒さ」が何によってもたらされたのかが焦点になります。
「疲労と寒さ」を凌げれば遭難は防げた、という理屈です。
(注*)最大風速が約33m/s以上約44m/s未満の台風を「強い」、約33m/s未満の台風については、その強さを表現しない。(気象庁のHPから要約)
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【第4章】補遺・薬師岳遭難⑤
山行データ19歳。大学2年。 1972年7月28日ー8月7日:八方尾根・唐松岳から黒部川へ下り、阿曽原、剣沢、立山、薬師岳、黒部源流、西鎌尾根・槍ヶ岳、槍沢から上高地へ下山 ...
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